行蔵は我に存す毀誉は他者の主張

緊張場面が前もって想定されているとします。
あがり症の方は予期不安に襲われます。

あのイヤなジトッとした感覚。
胸が締め付けられるような、息が詰まるような、頭がのぼせるような、あの何とも言えない感覚。

そして始まります。
未来予想図の放映が。
しかも他者の視線付きの。

そして、オリンピックか何かの前のビッグイベントのように、想定シーンが繰り返し何度も何度も頭の中で放映されていきます。

そのオリンピックは勝つことのないオリンピックです。
必ず、転倒、失格、敗北などの失敗場面が想定されます。

自分の意識のかなりの割合が、その来たり来る負のイベントのことに注がれます。
これでは、さながら失敗の予行演習をしているようなものです。

練習の甲斐あってか?本番はおそらく失敗することでしょう。

あがり症の方は本当にもったいないです。
あがり症の多くの方は生きる欲望が強い傾向があります。
こうなりたい、こうありたい、これしたい。

その生きる欲望のエネルギーの相当割合が、皮肉にも負の循環の方にあまりにも注がれてしまっているのです。
症状に対するエネルギー消費、他者の目や他者の思惑に対するエネルギー消費は、すればするほどほぼ逆効果となります。
火に油です。

症状に注目を与えることで逆に賦活されてしまうのです。
他者の目を意識するあまり自分を失くすのです。

勝海舟は福沢諭吉の批判に対し言いました。
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候」

これをあがり症流に改訳すれば次のようなものでしょう。
「行動は私がコントロールできる。他者評価は他人のもの、私のものではない、私にはいかんともしがたい」

このあり方が少しでも持てたら、他者の思惑の奴隷という立場から次第に解放されていくことでしょう。

 

あがることへのあり方

先日、あがり症の方の相談を受けた際に、普通の人もあがることは一緒だけど、あがった時のあり方が違うんですと説明しました。
その方は、はぁといった感じで聞いていました。

私は続けます。
普通の人はたとえあがっても、あがった自分を否定しないんです。
あぁ、緊張しているなぁ、ドキドキするなぁと。
その時感じた緊張を10とすると、10のままに緊張するのですと。

そうして感情というものは、その感情をそのままに感じることでやがて収まっていくのです。
だからたとえあがっても、そこに執着することなく目の前のことに集中することでやがて感情の波は静まっていくのですと。

ところが、あがり症の方はあがった時に、あがる自分をあってはならない、ばれてはならないと否定することで、却って10の感情を20にも100にもしてしまう。
そうして巨大化した感情をさらに否定する。
そうするとさらに感情は高まる。
そうしてはまっていくのです、と。

その方は言いました。
普通の人は本当にそんなふうに感じているんですか?
私とは違うんですか?と。

私は言いました。
そうです。

微かな間があって返事が返ってきました。
うらやましいです。

あがり症の方は言います。
緊張することがつらい、震えることがつらい、頭が真っ白になることがつらいと。

確かにそれもあるでしょう。
しかし、果たしてそれだけでしょうか?

あがった自分がどう思われるか、否定されるんじゃないか、軽蔑されるんじゃないか、そういった思いの方が強くないでしょうか?
つまり、あがる症状よりも、あがった自分がどう思われるかの方がつらいのでは?ということです。

それは次の問いに答えがあります。

仮にあがった時に周りに誰もいなかったら、果たしてつらいですか?

あがる症状よりも、ものの見方、捉え方の方がいかに自分を苦しめるかということです。
つまり、あがることは同じでも、ものの見方、ものの捉え方が変わることで結果的にあがり症は軽減されていくのです。

まずはそのことに気付くべきでしょう。