あがり症(社交不安障害、対人恐怖症)の方がしばしば持つ考え方の特性に段階的思考というものがあります。
これは、あることがクリアされなければ次のことをしないという思考です。

例えば、飛び込み台があるとしましょう。
そこから飛び込まなければなりません。

怖いです。
緊張します。
震えます。

このままではとてもじゃないが飛び込めません。
緊張がなくなって落ち着いたら飛び込もう。
とにかく落ち着こう。

深呼吸します。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせます。
気持ちが少し和らぐような気がします。

よし、段々落ち着いてきた。
もう少しだ。
もう少し落ち着いたら飛び込もう。

そろそろ行けるかな。
よし、今度こそ。

一歩、二歩と飛び込み台の前に近づきます。
一気に視界が開けます。
めまいがしてきます。
視界がかすみボヤーンとしてきます。

脈拍があがります。
ダメだ。
俺には無理だ。

後ずさります。
しゃがんで体を丸めます。
身動きせず呼吸を整えます。

ダメだ、もっと落ち着いてからでないととても飛べっこない。
今度は、もっと自分を落ち着かせよう。

息を吸って~吐いて~。
スーッ、ハーー。
スー、ハ―。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この方は果たして飛べるのでしょうか?
もしかしたら一生飛べないのかもしれません。

飛び込み台を前にすれば、普通誰しもがドキドキします。
怖いです。

しかし、その不安や恐怖がなくなってから飛び込もうとする。
理屈は分かります。
けれど、そんなことが本当に実現するのでしょうか?

彼ら彼女らはかなわぬ望みを抱いているのです。

完璧主義の罠です。

現実世界は、かくありたいと自分が望むようになることは極めて稀です。
誰しもが心に何らかの引っかかりを持ちながらも、何かしらのことをしているのです。

完璧主義で、理想主義、そして段階的思考を持つあがり症(対人恐怖症、社会不安障害、社交不安障害)の方はここをはき違えます。

こうなってから初めてこうしよう。
ここがクリアされない限りはこうしない、と考えます。

あがることがなくならない限りは、社交場面には出まい。

緊張感がある限りは、会議で自分から発言なんて絶対しない。

あがり症が治らない限りは昇進試験を受けまい。

あがり症が治らないと彼女なんてできっこない。

もう少し落ち着いたら話しかけよう。

あがり症だからスピーチは絶対断ろう。

人と話すとあがってしまうから自分からは話しかけない。

懸念が取れない限りはリスクは取らない。

橋が落ちるかもしれないから橋を渡らない。
交通事故に会うかもしれないから車には乗らない。
隕石が落ちるかもしれないから外には出ない。

そうして自分の生きる世界を狭めているのです。
人としての自然なあり方、生きるうえでの必然を否定しているとも言えるのではないでしょうか。

そうじゃない。

緊張しながらでいい、ドキドキしながらでいい、それでも飛び込み台の上に立つのです。
傷つくかもしれないけど、社交場面に臨むのです。
あがりながらも手を挙げ質問する。
振られるかもしれないけど告白する。
ドキドキしながら自分から話しかける。

あがり症者(対人恐怖症、社交不安障害、社会不安障害)の方に足りないのは「~ながらも〇〇する」、「~だけれど〇〇する」という姿勢です。

あがりながらも~する
緊張しながら~する

この「~ながら」の回数を積み重ねていく。

怖いかもしれない、緊張するかもしれない、また失敗するかもしれない。
けれど、それでも飛び込み台から飛び込む。
厳しい現実を突き付けるようですが、ここにしかあがり症の克服はありません。

その時、必要なもの。それが勇気。
困難を恐れずに、一歩前に踏み出す勇気。
勇気があれば何でもできます。

どこかで聞いたようなセリフですが。

じゃあ、どうすれば勇気が手に入れられるのでしょうか。
それは、一つにはアルフレッド・アドラーが説く、共同体感覚を増すことができれば勇気もまた増すように思います。

共同体感覚とは、人との繋がりであり、繋がっている感覚であり、人と良い関係を築いている事。

人にとっての最大のリスクは、橋が落ちることでも、交通事故に遭う可能性でも、隕石が落ちる可能性でもなく、人と繋がっていないこと。これが人生で最大のリスクです。

そもそも、人間は群れからはぐれたら生きていきません。
だから、ムシが一番つらい。
あたかもそこに居ないかのように扱われるのだから。

だから、飛び込み台から飛び込みたいのなら、呼吸を整え緊張をなくすことではなく、勇気を高めること。勇気を高めたいのだったら、人と質量ともにいろんな繋がりを増していくことなのです。

そして、勇気と共同体感覚を増していき、緊張しながら、恐怖を感じながら飛びこむ。

魔法の薬などありません。
たった一回の「~ながら」では成長した実感が得られないかもしれません。
気の遠くなるような思いもするかもしれません。

しかし、たった一回でもいい、飛び込めなかった自分がブルブル震えながらでも飛び込むことができた時、到底考えられなかった「克服」という蜃気楼の存在を知った時、千里の道があり得るのだと知った時、人は顔を上げます。

「克服」という蜃気楼、それはすなわち「希望」です。

希望ある限り人は生きていけます。
希望こそ生。

希望を、生きる希望を、どうか失わず、ささやかな一歩を踏みしめて頂きたいのです。