あがり症や対人恐怖症の方はいつでもどこでも緊張するのでしょうか?
決してそんなことはないはずです。
もし、いつどこでも緊張するのなら、体なり、脳なり、神経なり、何らかの器質的な疾患なのかもしれません。
アドラー心理学の祖、アルフレッド・アドラーは、人生のあらゆる問題は結局のところ対人関係の問題であるとしました。
ゆえに対人という条件がなければ悩まない。
あがり症の方は対人、つまり人がいなければ悩まないのです。
この世に自分一人しかいなかったらあがりますか?
その時、あがり症は治るのではないでしょうか。
では、あがり症の方にとっての対人観の特徴とは何でしょう?
それは、自分への信頼感、他者への信頼感、この世界への安心感にあります。
これらの信頼感や安心感が弱いんですね。
だから、私は失敗しやすく、他者は私を責め、この世界は危険だと無意識に考えてしまいます。
アドラーは言いました。
「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック―いわゆるトラウマ―に苦しむのではなく、経験のなかから目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのでなく、経験の与える意味によって、自らを決定するのである」(『人生の意味の心理学』アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ)
いかなる経験、つまりこの世界で起こる出来事それ自体は単なる出来事に過ぎないのだと。
出来事それ自体に意味があるわけではなく、私たち自身が出来事に意味づけしているのだと。
これは、あらゆる人に当てはまるでしょう。
生き辛さを感じていない人にとっても、感じている人にとっても。
たとえば、今が12月だとして、今年はもう一か月しか残されていないから来年頑張ろうとあきらめてしまう人と、まだ一か月もあるから頑張れると考える人もいます。
一つの失敗をもう自分はダメだと考える人と、良い経験となったと考える人。
あがり症が治らない限りはやらないと考える人と、あがり症があってもやろうと考える人。
出来事は本来、それ以上でもそれ以下でもないのです。
無色透明です。
私たちが出来事に意味づけし、色を塗っているのです。
あがり症(対人恐怖症)の方は、まるで敵国の中にいるようです。
そして、群衆の中で誰が刺客かと探し、他者の目、他者の言動の中にその証拠を探します。その様は、敵に囲まれてキョロキョロ、挙動不審な様子で都落ちする落人のようです。
その生活を繰り返していると、次第に振る舞い方が自然に決まってきます。
なるべく目立たないように、なるべく失敗をしないように、隙を見せないようにと行動するわけです。
だって、もし見つかったら自分の命の保証がないのですから。
いや、冗談でも例えでもなく、本当にそれぐらいの気持ちで生きているあがり症の方は、実は結構いらっしゃいます。
そして、外見だけはせめてまともに見せようと、内面は極度の緊張と恐怖に襲われながらも、時に涙ぐましいまでにあがっている様子を隠そうとします。
あがり症の方の生きにくさはここにあります。
失敗しないように、隙を見せないように、あがっているのがバレないようになどという望みは、そもそも不可能な試みです。
あがり症の方は不可能を可能にしようとします。
あたかも神に挑むかのようです。
しかも、それを何度となく何度となく繰り返します。
殴られても殴られても効いてないよというフリをして、倒れても倒れてもまだやれるよと立ち上がるボクサーのように、心も体も疲弊して。
そのアプローチを取っている限りは永遠に生きにくさは変わらないでしょう。
だって、敵国にいる以上、必ず敵に出会うのですから。
全く別のやり方が必要なのです。
症状を隠そう、バレないで表面的でもいいからまともに見られようというやり方は、対症療法にも劣って、やがて限界がきます。
本当はシンプルなんです。
この世界を敵国ではなく味方国にすればいい。
え?そんなの出来ないって?
確かにそうかもしれません。
一朝一夕にはいかないかもしれません。
けれど、ここが核心だと思うのです。
味方国と言えばあれですが、たとえば家族の前であがった時、敵国の中であがるほどの恐怖を感じるでしょうか?
感じるという人はほとんどいないでしょう。
なにも、家族とは言いません。
それに近づくけるような人間関係作りをしていくことに尽きると思うのです。
そしてもう一つが自分への「許し」。
不可能を可能にしようと生きてきた自分のやり方が、もう行き詰まりを迎えているんだ、そんなの無理な望みなんだ、あがらざるを得ないんだと腹から理解した時、転じます。
自分への許しに。
だから、あがり症の克服のあり方は、自分を許し、他者への信頼感を上げていき、この世界に対する安心感を増していく。
そうしてこの世界が決して危険なわけではないと思えた時、あがり症を治さずしてあがり症の症状が軽減されていくのです。
症状を治そうとすることは木を見て森を見ていないことに気づくべきでしょう。目の前の木を治しても後ろには広大な森が控えているのです。
人の心の世界はあまりに広く、あまりに奥深く、そして実は、もしかしたらとてもシンプルな世界なのかもしれませんね。