(近日予定講座!)
「あがり症克服日めくりカレンダー」出版記念セミナー【新宿7/15】

今日は、あがり症(対人恐怖症、社会不安障害)の方が治りたいと思っても、なぜうまくいかず、なぜ病が長引いてしまうのか、その辺について語っていきたいと思います。

三つの囚われ

あがり症(社交不安障害、対人恐怖症)は囚われの病です。

症状に囚われる。
人の視線に囚われる。
自分自身に囚われる。

まず最初の、症状に囚われるとは、症状が悪化していくとそれこそ起きてから寝るまで、あがることばかりに意識を向けるようになります。

今日仕事で上司に話さなければならない。
授業中当てられたらどうしよう。
ママ友との会話、ちゃんとできるかしら。

そうして、ドキドキや不安、緊張に対して過敏になります。

まるで、あがり用センサーのように、微かな緊張・不安・震え・顔のひきつりに意識が向きます。

そうしてセンサーの性能が良いので、それをキャッチします。
意識の全てがあがり症の不安と恐怖に囚われてしまうのです。

そして益々気になっていき、センサーはフル活動状態になります。

そして2番目の人の視線に囚われるですが、これは、自分があがることについて過剰なまでに他者の目を意識することです。

変に思われたのではないか?
あがっているのがバレたのでは?
軽蔑されたに違いない。

本当かどうか確かではない思い込みに囚われ、あたかもそれを真実であるかのように捉えてしまうのです。

人の目にばかり囚われ、人の思惑の奴隷となります。
そこに本当の自分はいません。

自分がどんな人で、どんなこと感じて、本当の自分はどこ?といったような、自分が分からなくない状態になってしまう人もいます。

そして最後の自分自身に囚われるですが、あがり症の方は他者の目に囚われる一方、他者への気づかいや優しさ、他者の感情などに鈍感となります。

自分の症状にばかり囚われ、人のことなど考える余裕がなくなるのです。

あがり症の方は、自分から他者に攻撃するような方はほとんどいませんが、他者のことなど考えられなくなってしまうのです。

これを消極的自己中と言います。

こうなってくると、あがり症はどんどん悪化していきます。

アドラー心理学「共同体感覚」が最も重要

アルフレッド・アドラーは共同体感覚の重要性を再三言っています。

共同体感覚とは、家族、友人、学校、職場、地域、国といった社会において自分がその一員であると実感することです。一言で言えば繋がりです。

その共同体感覚を持って共同体に貢献していくことが、治療的なのだと。

おそらくピンと来ない人が多いでしょう。
共同体に貢献することがなぜ、治療的?

けど、私にはよく実感できます。

私のもとに悩みを持ってこられる人の中で、共同体感覚が低く自分のことばかりに囚われている人ほど、症状や状況が大変な傾向があります。

回復者、あるいはより良く生きている人ほど共同体へ貢献することに意識が向き、それに伴い症状が小さくなっていきます。

アドラーは言っています。

「一番最初から共同体感覚を理解することが必要である。なぜなら、共同体感覚は、われわれの教育や治療の中の最も重要な部分だからである。勇気があり、自信があり、リラックスしている人だけが人生の有利な面からだけでなく、困難からも益を受けることができる。そのような人は、決して恐れたりしない。困難である事は知っているが、それを克服できることも知っており、全て例外でなく対人関係の問題である人生のあらゆる問題に対して準備ができているからである。」

「私は自分に価値があると思える時にだけ、勇気を持てる。そして私の行動が共同体に有用である時にだけ、自分に価値があると感じることができるという真理を認めることは、勇気を覚醒する際の最初の一歩である。」

「改善の唯一の可能性は、人生へのより協力的で勇気のあるアプローチを採るように人を訓練することである。」

アドラーは犯罪者にも神経症者にも、共同体感覚への貢献が治療効果をもたらすとしています。ちなみに神経症とは、ざっくりと言うと身体を原因としない、心因性のメンタルの病のことです。

神経症者に対して症状を扱わないという点では、森田療法にも共通する所があります。

ちなみに、森田療法では不問療法と言って、患者の症状への悩みを根掘り葉掘りしないことが大事と考えられています。

さて、共同体感覚ですが、もともと人は本能的に他者に役に立ちたいという気持ちを持っています。

これは単に優しさという点だけではありません。

人は人に貢献することで自らが救われるのです。
与えることは与えられることなのです。
人は人を勇気づけることで自らが勇気づけられるのです。

受ける恵みより、与えることの恵みの方がいかに大きなものか。

あがり症の方に限らず心の病に苦しむ人に伝えたいのは、自分自身からの囚われは一旦そこにおいて、共同体への貢献をすることに意識を向けてみてはどうかということです。

症状と何ら関係なくて構いません。
他者への優しさ、貢献、声かけ、挨拶、笑顔、労わり、何でも構いません。
今の自分にできることから始めればいいのです。

あがり症とは自分自身や症状への囚われの病です。

ベクトルが自分の方向に向けば向くほど悪くなりますが、ベクトルが外に向けば向くほど、症状にはな~~~んにもタッチしてないのに症状が軽くなっていきます。

そして、それ以上に治癒的なのは、与えることそのものの治癒性です。
与えられることではなく。

みんな誰しもが欲しがるんです。
人からこうしてもらいたい。
人がこうしてくれる。

けれど、それがない時、どんな言葉に変わるのか。

人がこうしてくれない
私はやってるのに

「のにくれない」族になります。
のにくれない族の集団に生き、のにくれない言葉を母国語としている一族は世界で一番与えられない民族となります。最も与えられることを欲しながらも。

のにくれない島から脱出するには、本質を書いてある小学校の標語や道徳の本に答えが書いてありますので、それを経典とすると良いでしょう。

愛、友情、優しさ、そういった本質の中にこそ、人の心を癒す薬があるのかもしれません。

共同体への貢献こそが、薬では決して治すことのできない、生き方から来る症状の治癒に繋がるのです。

(参考記事)
相田みつおの言葉と結婚式の友人代表スピーチ~たとえ緊張しても