あがることに抗わない
あがり症の方は待てない人です。
差し迫る恐怖場面、じわじわ締め付けるような不安に居ても立ってもいられず、何らかの行動をします。
行動には二種類あります。
現実の行動、そして頭の中での行動です。
まず現実の行動としては、気持ちを強く持つ、深呼吸や呼吸法、緊張や不安をおくびにも出さないよう取り繕う、等々。
この何らかの対処法をはからい事と言いますが、はからい事はまずうまくいきません。
はからい事は、緊張と不安に注目することでよりそれらを活発にしてしまうからです。
次に、頭のなかでの行動はシミュレーションです。
恐怖場面を想定し、頭の中で何度も何度も繰り返します。
しかし、そのシミュレーションは決してうまくいった自分を想像してはいません。
失敗するのではないかと、緊張と不安に焦点を当てたシミュレーションです。
頭の中で何度も何度もシミュレーションしたことは、良かれ悪しかれ実現してしまう傾向があります。
あがり症の方々は、なんとかしようとする行動が皮肉にも失敗練習をしていることがしばしばであるということを知る必要があります。
実際の行動も頭の中での行動もうまくいかない。
ならば、どうすれば良いか?
それは何もしない、すなわち待つことです。
待てなくてはまってしまうのがあがり症ですから、その習慣を変える必要があります。
なんとか自分を抑えて待ってみる。
一切はからい事をしない。
ただその時起こることを感じてみる。
あり方としては、水の中で溺れる人と一緒です。
ジタバタ暴れるからますます溺れてしまうのです。
息が苦しくても、恐怖に圧倒されても、それをなんとかこらえて、ただ波に身を任しているうちにフワッと水面に浮かび上がる、その体験を知る必要があります。
だから私は言うのです。
あがっていい。
あがることに抗わず、ただ、あるがままにあがればいいのです。
最も話したくなことの側にこそ・・・
もっとも話したくないことの側にこそ話したいことがある。
もっとも恐れていることの側にこそ大切なものがある。
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私があがり症の渦中にある時、それはいかなる人にも知られてはならない極秘事項でした。
私は、自分に完璧を求めていました。
自己理想像が高すぎるがゆえに、それはあってはならないことでどうしても受け入れられませんでした。
そして同時に、他者にそれを知られることは私にとっては人生の終わりのようなものでした。
なので、その国家秘密レベルの極秘事項を全能力をかけて守ろうとしました。
悲しいかな、それがその頃の人生の全てでした。
緊張という言葉を徹底的に避けました。目を逸らしました。
緊張という言葉を本や新聞などで目にすると戦慄が走りました。
私は、長年の間、緊張やあがるという言葉を、よほどのことがない限り発することが出来ませんでした。
私が徐々にあがり症のことを話せるようになったのは話し方教室に通うようになってからでした。
その頃は、あがり症が徐々に改善してきている頃でした。
月に一回、そこの話し方教室では合同授業というものが行われ、20~30人ぐらいの前でスピーチコンテストがありました。
私は、計5、6回コンテストに参加しましたがその時だけは本気でした。
私は敢えて、最も自分が話したくないことを話しました。
話したくないこと、それは何か?
私のあがり症のトラウマ体験です。
回避しまくった体験です。
惨めな体験です。
これを話すには勇気がありました。
私が全能力を掛けて隠してきた秘密だったからです。
なぜそれを?
私は同じような悩みを持つ方を前にした時、言わずにはいられなかったのです。
私は、どうしても伝えたかったのです。
私の体験を。
人はより良く生きられるということを。
諦めてはいけないと。
振り返ってみれば、最も話したくないことの側にこそ話したいことがあったのです。