あがり症者の十界互具

十界互具という言葉があります。
これは、人間には全てのものが本来備わっているという仏教の考えです。

十界とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界をさします。

鬼の目に涙と言います。

残虐な殺人を科した死刑囚が牢獄で改竣して優れた詩を残した人もいます。

日頃穏やかで誠実な人が、時に非情な振る舞いを見せることがあります。

ナチス、イスラム国、北朝鮮といった、そこに暮らす人民が相互に監視し厳罰が付随しているような状況では、肉親でさえ裏切ります。

人間は様々な顔を持ち、時に応じてそれを出すのです。いわば完全なる善人もいなければ完全なる悪人もいないのです。

 

話が飛躍しました。

あがり症の方は、内気で気弱な人のように見えるかもしれません。

しかし、それは大きな誤りです。
その内面には負けず嫌いで、強い自尊心や
高い向上心を抱えている人が多くいます。

単なる内気な人ももちろん、あがることはあるでしょう。しかし、内気な人はそれに長く囚われることはありません。

例えば人前に立つ時、その時緊張し、その時がっかりし、その時自分に失望します。そして内気な自分をあきらめと共に受け入れます。

しかし、あがり症の方はその高い意識にゆえに、あがるという事実を受け入れられず、なんとかしようと必死にもがきます。

それ故、人前に立つ時、その前から恐怖におののき、本番で極度に緊張し、終わってからはそのシーンを何度も何度も巻き戻し、再生して自分のダメ出しを繰り返すのです。

 

つまり、その時だけの恐怖と失望なのではなく、過去、現在、未来に渡る恐怖と失望なのです。

あがり症の方は、高い理想と向上心を内面に持っているからこそ、あがり症になったとも言えます。

 

その実証は回復者のありようです。
あがり症の回復者は大いなる向上心を持って世に貢献している人が数知れずいます。

それは、あがり症の方の持つ素質からして当然のこととも言えるかもしれません。

私はあがり症の方に言いたい。

いかなる苦境、いかなる絶望的状況にあっても人を支えるもの、それは希望です。

例え今は苦しみの底にあり、例え先行きが見えなく、例え絶望的な状況であろうとも、あなたの内面に十界互具としていかに優れたものを持っているかということを。

そしてそれこそがあなたの希望だということを。

 

「あきらめ」と「あるがまま」と

あがり症は逆説の病です。
あがることをこれはいけないと捉え、何とかしようとすればするほど却って症状が悪化する。
いわば努力逆転の病とも言えるでしょう。

ではどうすれば良いか?
二つの考え方が挙げられるでしょう。

まず最初に「あきらめる」という発想があります。
あがり症は治りっこない、症状と闘っても余計に悪くなるとして、これまで呼吸法をやったり、座禅を組んだり、恐怖場面に備えて準備するといったような治るための努力を放棄するのです。

具体的には闘う場面を避けて、自分に合った環境や自分に合った交友関係内での人生を送るというやり方です。

なるほど人との関わりが苦手なんだし、努力すれば却って悪くなりかねないのなら、一人でできる仕事を見つけ家族やごく少数の知り合いや友達との関わりのみで生きていけば、挫折経験も少なくなる。
それが自分が傷つかない最も安全な生き方なんだと。

確かに、漫画家、農家、小説家、研究者、職人、主婦といった一人仕事はいろいろありますし、時代の流れとしてインターネットなどを通した全く人と関わる必要のない仕事はこれからさらに増えていくことでしょう。

これは、確かに有効な対処方法であり、人によっては私もこの生き方を勧めるでしょう。
特に、内気な方や人との関わりをあまり望んでいないシゾイドと呼ばれるような傾向を持った方々がそうです。
彼らはこの生き方を受け入れるかもしれません。

では、森田神経質と呼ばれる純粋な?あがり症タイプの人はどうか?
繰り返しますが、あがり症は逆説の病です。

あがる自分を否定すればするほど余計あがる。
努力はすればするほど倍返しになる。
人との関わりを求めながらも人との関わりを恐れる。

彼らは向上心や理想が高いがゆえにこそ苦しんでいるのです。
果たしてそんな彼らが、恐怖場面を回避して人との関わりの少ない環境で生きていくことを良しとすることができるでしょうか?

私には想像できます。
きっと彼らがその環境に入ることができたのなら、ほっと安心するのも束の間、自己否定の思いがじわじわと湧いて出てくるに違いありません。そしてやがて、人生の中で自分の課題から逃げおおせることがいかに難しことかに気付くでしょう。

彼らは今の自分を受け入れることがなかなかできないに違いありません。
これが「あきらめる」という選択の私が想像する結果です。

 

では別の選択肢は何か?
それは「あるがまま」の姿勢です。

不安や緊張などの症状に対して、抵抗したり否定したりしないであるがままに受け入れる姿勢は「あきらめる」という選択肢と同じでしょう。

しかし、症状はあるがままにして、本来持っている向上心やより良く生きたいという思いに沿って、なすべき事をなしていくという所が「あきらめ」と違うのです。つまり症状に対しても「あるがまま」、向上心に対しても「あるがまま」なのです。

つまり、緊張すればするがままに、ビクビクすればするがままに恐怖突入していくのです。
恐怖突入がいかに恐ろしいことか、それは間違いないでしょう。

しかし、これが「あがる」ことに直接にアプローチせずして「あがる」ことを軽減させる最も近道な方法なのです。

 

あがることを回避し、安全に生きたいという思いに沿って人との関わりの少ない隠棲的な人生を選ぶのか、

あがることはありながらも、より良く生きたいという本来の思いに沿って困難に立ち向かう人生を選ぶのか、

あなたの人生はあなたが決めることができるのです。