私が、あがり症の方のためのブログとセミナーやカウンセリングを始めてから、約4年になります。
私自身、17歳の日にあがり症を発症してから、それまでの順風満帆な人生から坂道を転がり落ちるような人生を歩んできました。
人生の裏街道を歩むように、まるで北朝鮮のように人間性を度外視したブラック麻雀店から抜け出れない自分を見て、友人は「たけはるは終わった」と言いました。
知的障害か発達障害と思われる同僚に「しょーちゃん」と呼ばれた子がいました。
あがり症の悪化に伴い、私が何が何だか訳が分からなくてミスしまくったり、とんでもない言動するのを見て、店長に「たけはるは、しょーちゃんと一緒だ」と言われました。 深く傷つきました。
お客さんのいる前でオーナーに頭を引っぱたかれたり、何時間も立たされて説教を受け続けて、私はさながら可哀そうな人でした。
365日年中無休で、一日24時間から16時間労働を引いた残り8時間、それが私の時間。
その8時間のうち7時間を使って、私への社員教育と称して深夜ミーティングが行われました。さらし者です。 こんな日が何回あったかはもう覚えていません。
パワハラとあがり症の悪化と孤独で最も辛かった日々に、山形市郊外の心療内科に朦朧として向かう際、橋の上から下に流れる川を見たのを覚えています。 何か吸い込むような。
そして、30代半ばで、このままの人生でいいのかと強く思い、転職を決意しましたが、自己肯定観ゼロで、自分自身一般社会で働いていく能力は全くないと思っていた私には、求人チラシを見ても何か自分とは別世界のものに思えました。
困りました。
転職を決意したのに、その先が何も見えない。 全く何も。
二年間、毎日寝る前に祈りました。
そこはもう、にわかクリスチャンです。
「天にまします父よ、どうか私に、天職と生涯の伴侶を与えてください」
生涯の伴侶はおまけです(笑)
けれど、祈りは本気でした。
何度も何度も、強く強く。
ある日、ふと思い、自分の人生の幼少期から今に至るまでを全て洗い出してみようと思いました。
何が得意で何が苦手で、何が好きで何が嫌いで、どんなことに夢中になって、どんな時悔しくて、どんな時感動して、何をしている時心が動かされたり、ワクワクしたり・・・
そう、人生のありとあらゆることを総ざらいするかのように。
定かには覚えていませんが、一週間ほどでしょうか、毎日メモ帳に書き続けて、もうそれ以上は書けなくなりました。
それを深夜の麻雀店、少なくなったお客さんの時折聞こえてくる声、麻雀牌の混ざるガラガラ音と静寂と、そんな中、カウンターの上にメモを破いて全て並べました。10枚か20枚か。
ただ、じっと見入りました。
5分、10分、20分・・・・・・ただじっと、無言で、ただただ。
瞬間でした。
ある言葉が浮かび上がりました。
「俺は、弱い立場の人のために生きている時、自分が自分であるという実感を得られるのではないか?」
その日から始まりました。
私の本当の人生が。
私は私の人生で目指すべき北極星を見つけたのです。
そして、約20年ぐらいかけて、あがり症は徐々に徐々に改善してきました。
やがて、この経験を誰かのためにと思い、ブログが、セミナーが、カウンセリングが、講演が始まっていきました。
この間、様々なあがり症の方を見てきました。
いったい、何人のあがり症の方に会ったことでしょう。
この経験を通して、私にはあがり症に対しての結論があります。
それは、「あがり症とは症状へのあり方と生き方の病」であるということです。
決して、脳に原因があるわけでも、心臓に問題があるわけでも、性格が歪んでいるからでもない、自分自身の偏ったものの見方が生み出した幻想の病であるということです。
症状を異物化して排除しようとし、他者を敵と思って身構える、たったこの二点の主題が織り成す悪循環の仕組みが作り出す幻想の病。以上。
それは、あたかも映写機に映し出される、真実であって真実でない虚構の現実。
そして、映写機のエネルギーの原動力は、自分があがり症を何とかしようと思って発動する思考と感情の全て。
そう、あがり症は症状をなんとかしようというアプローチではうまくいかないのです。
あがり症の克服は、症状を軽くする、症状を抑え込むアプローチに答えはありません。
あがり症の症状はあってもなくてもそれはそれでもうほっといて、その上で何をしていくか、そこに答えがあるのです。
良くなった人の共通点は、症状へのあり方の緩みであり、許しです。
そして、他者との繋がりです。
そして、私に起こった自分にとっての「人生の意味」の発見と追及です。
本当の自分を生きれば、本当の自分に近づいていけば、あがり症は片隅に追いやられていきます。
あがり症は治さなくていいのです。
どこかで聞いたような言葉ですが。
あがり症の克服とはいつの間にか忘れていくことにあるのです。