あがり症、パニック障害、強迫性障害、不安障害などの神経症に悩む方々の自助グループとして生活の発見会があります。

そのネットワークは日本各地に及んでいます。

森田正馬が創始した森田療法の考え方をベースにして、神経症からの回復を図ろうとしたもので、約60年の歴史があります。

この60年という期間は、単なる理論としての歴史だけではなく、その悩みを抱えた当事者からの支持があってこそ初めて成り立つ、重い意味があると思います。

私もわずか一回だけですが、かつて参加したことがあります。

その生活の発見会は毎月、会誌を出しているのですが、ちょうど昨日届いた4月号に私が寄稿した文章が載せられました。

会員向けの会誌で、一般書店やamazonでの取り扱いはありませんので残念ながら購入できませんが、寄稿した文書を以下掲載します。

要点は、私がセミナーで何度も何度も言う、「あがり症とは症状へのあり方と生き方の病」であるということです。

【生活の発見会寄稿文(2018.4月号)】
「あがり症とは症状へのあり方と生き方の病」
~森田療法とアドラー心理学からの考察~

私は元あがり症の45歳男性です。私はあがり症だけでなく、対人恐怖の中でも重度とも言える他害恐怖もありました。自分の匂いが相手を不快な思いにさせているのではないかという自己臭恐怖。そして、自分の強烈な緊張が相手に伝播して相手まで緊張させているに違いないという緊張伝播恐怖?といったものです。

私は悩み続けた果てに、やがて森田療法と出会い、更にアドラー心理学を学ぶことであがり症克服の道を辿ってきました。今はその経験を活かして、あがり症の方へのカウンセリングやセミナーを行っています。

その中で強く確信したことがあります。それは、「あがり症とは症状へのあり方と生き方の病である」と。

あがり症は、脳に異常があるわけでも、親の育て方が悪かったわけでも、緊張しやすい性格のせいでもないのです。それらが環境因や原因としてあるのかもしれないし、ないのかもしれない。しかし、仮に原因が分かったところで、じゃあその原因にアプローチしていって治るのか?そのアプローチで本当の意味で治った方はほぼいないのではないでしょうか。

原因論や対症療法では本質的な解決には結び付かないのです。 私たちが小さい頃からなじんできた西洋医学的な発想、すなわち悪いところがあればそこを治せばいいといった視点ではあがり症を見誤ります。あがり症とは、症状へのあり方が生み出した悪循環と、この世界への誤った見方が生み出した勘違いの病なのです。それはあたかも蜃気楼のようなものです。

森田正馬は言いました。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と。 この、枯れ尾花を幽霊と見てしまう心の有り様、そこにアプローチしていくことこそが何より大切なことなのです。それが森田療法とアドラー心理学なのではないかと私は考えています。そして、症状へのあり方には森田療法が、生き方にはアドラー心理学が有効であるに違いないと。

この投稿では、私自身の体験を元にこのことについて述べさせて頂きます。 そもそもの始まりは高校二年生の時でした。地理の授業の時に当てられた際に、声を震わせて本を読んだことが強烈なトラウマ体験になってあがり症となり、坂道を転げ落ちるかのように負のスパイラルを辿っていきました。精神科病院にも行きました。

大学に入ると人前で話したり人と話すようなゼミや英語の授業などに段々出られなくなっていきました。外に出てその辺を歩くだけでも人の目を常に意識するようになり、パチンコ屋とアパートの往復をするような半引きこもりの生活となっていきました。ズルズルと結局大学は6年半かけて卒業し、就活は怖くてできませんでした。結果、大学時代にバイトしていた麻雀店にそのまま居続けたのが私の就活でした。その後もあがり症は何ら変わることなくむしろ益々悪化していきました。

そして、最も苦しかった30才の頃、私は私を救ってくれる蜘蛛の糸を心の底から求めていました。悲痛なまでの思いでした。実際にあまりの苦しみに心の中で絶叫したこともありました。そうしてさまよい続けた果てに辿り着いた人生で3番目の心療内科。そこで森田療法のことを教えられました。  私は、その日その足で、山形市内の本屋に行き、森田療法の本を2冊買いました。 衝撃でした。そこにはまるで私のことを全て分かっているかのように、私のこと全てが書かれていました。この人は一体誰だ?俺は一体どうすればいいんだ? 貪るように2度繰り返し読んだ後、私は決意しました。 「恐怖突入しかない」

徹底的に逃げ続けてきた私が、その日以来、逃げることを止めました。あまりの恐怖に怯えわななく自分の首を、まるで猫の首を取って捕まえるかのように、私は私自身を恐怖場面に差し出しました。立ち向かったのではありません。ただその場を避けなかっただけです。ブルブル震えようが心臓が張り裂けようが、ただそこに踏み止まったのです。あまりに泥臭くあまりに苦しい孤独な道でした。

やがて、私は緊張しながらも人前でなんとかこなせるようになりました。一面から見れば成功です。しかし一方、違う一面から見れば表面的な成功に過ぎませんでした。私は知りませんでした。私はやり方を誤っていたのです。

人前で話す前は、話す内容を徹底的に丸暗記するぐらいに覚えました。また、人前で話す時は、これまで同様徹底的にあがってないフリ、冷静なフリをしました。表情はなく、能面のようなその顔の下の心は張り裂ける寸前の風船のようでした。森田の言うはからいごとを一生懸命やっていたのです。それはむしろ恐怖を固着させていただけだったのです。

その誤りが転職時に見事に証明されました。以前よりあがり症が良くなったと思っていたのですが、社会福祉士という資格を取るための専門学校に入った時のことです。入学前のオリエンテーションの際、四人一組になって自己紹介をするよう言われました。若い子3人に囲まれて、一番年長の私が自然に最初に言う流れになりました。環境の変化に弱い、偽克服者の私はこの状況だけで緊張レベルがMAXになりました。私はうつむき加減に言いました。 「佐藤健陽です・・・よろしくお願いします・・・」 それ以上声が出せませんでした。顔がカーッと真っ赤に燃え上がるような感覚に襲われました。恥ずかしさのあまり顔が上げられなくなりました。シーンとなった後、やがて私以外の人は、前の職業のことや出身や趣味やいろんなことを楽しそうに話し始めました。私は輪の中で取り残されたまま、ただそこに一人いました。

私は屈辱とともに即、動きました。話し方教室をネットで調べ上げ、一週間後、既に教室の中にいました。この教室には約3年通いました。私はここで大きく変わりました。いろんなチャレンジをしました。イベントで司会や実行委員長などを務めました。

振り返ってみれば、私の克服の要因は決して話し方の練習だけではなく、他者との繋がりにあったように思えてならないのです。あぁ、自分だけではなかったんだと。世界で一番不幸だった私は、同じ悩みを持つ仲間に出会い、同じ悩みを持つ仲間に救われたのです。

そしてある言葉が更に私を救いました。
「まいっか」 私は私を許したのです。あがってしまった自分、どもった自分、震えた自分を、たとえその時は受け入れられず否定したとしても、「まいっか」という言葉で引きずらなくなったのです。その時初めて、あがり症の悪循環の罠から解放され、「あるがままに」という道へ一歩踏み出したのです。

振り返ってみれば私の克服は誤りだらけでした。森田療法を読み誤っていたのです。そして、それだけではありません。私の克服の道は孤独だったのです。私のあがり症克服は、森田療法だけでなくアドラー心理学によって更に強化されました。

アドラーは共同体感覚を増すことの意義はいくら強調してもし過ぎることはないと言いました。つまり、他者との繋がりや他者との絆を深めることです。生活の発見会しかりでしょう。

そしてもう一つ、アドラーはあがり症を含めた神経症のライフスタイル、つまり生き方のパターンに対して深い洞察をしています。森田はこの点についての言及が弱かったように思います。アドラーは人前で話せない神経症の人について語っています。

「成人してから社会生活を避けようとする人の間に、人前で話すことができず、場遅れしてしまう人がある。聴衆は敵と考えるからである。このような人は、一見したところ敵対的で自分より優れている聴衆を前にすると、劣等感を感じる。しかし、自分と聴衆を信頼できる時にだけ、うまく話すことができ、場遅れしないのである。」―「個人心理学講義」

「あたかも大きな深淵の前に立っている、あるいは、敵国の中に住んでいて、いつも危険にさらされているかのように、過度に緊張しているという傾向を彼に説明することができる。」―「個人心理学講義」

ここにはある信念があります。 「他者は私を攻撃する」 「他者は敵だ」 「ゆえに私は人前で失敗してはならない」 といったような。 ここにこそ、あがり症に対症療法が効かなかったり、改善しても再発する理由があるのではないかと思うのです。一旦改善したとしても、この信念を持っている限り当然のように再発したり、あるいはまた別の生きにくさを生じさせてしまうのではないでしょうか。

つまり、必要なことは表面的な改善ではなく生き方の改善なのです。森田の「あるがままに」は、正に「かくあるべき」が行き過ぎた過剰な生き方からの脱却です。そこに加えてアドラーが言うように、敵国の中で敵探しするのではなく、味方を探していくアプローチにこそ更なるあがり症の改善があるのではないかと思うのです。

つまり、私の考えるあがり症の克服とは、症状へのあり方と生き方を改善していくことにこそあると確信しています。私は今、森田療法の核心である「あるがまま」と、アドラー心理学の核心である共同体感覚を増していくという永遠に辿りつけないかもしれない目標に向かって、時にもがき、時に悩みながら、そして時にあがった自分を許しつつ、日々歩み続けています。

症状へのあり方は森田療法が、生き方に対してはアドラー心理学が役に立つというのが、私のこれまでの様々なあがり症体験の結論です。

今後もこの考え方を元にしてやっていきます。

(参考記事)
生活の発見会HPに書籍紹介

あがり症は何を目指しているのか?「神経症の時代~わが内なる森田正馬」より