以前にもご紹介しました精神科医で神田橋條治先生という方がいます。
精神医療関係者の中でその名を知らぬ人はいないのではないかというぐらい、博学かつ実際の診療の実績がある方です。
その神田橋先生がその著書の中で仰っています。
「問題」とするものを「能力」という言葉に置き換えてみなさい、と。
それをすると、何か発見が得られたりアイデアが浮かびやすくなります。
例えば不登校という問題なら、不登校する能力。
不登校することにより自分を守っているのかもしれません。
他には暴力という問題なら、暴力する能力。
これはなかなか難しいですが、しいて言うなら、暴力することにより内側に溜めて自傷自殺することを阻止していると考えることもできるかもしれません。
他には、やたらとネガティブ思考で自他ともに暗くなってしまう方っていますよね。
この場合はネガティブ思考する能力。
ネガティブ思考することにより安易な決断は避けられる。
あるいは、これまで期待しても叶わず失望することが多かったので、ネガティブに捉えることによりその落差の痛みを避けようとしているのかもしれない。
なかなか発想の転換が求められますが、さぁ、本題です。
あがり症という問題を、あがる能力あるいはあがり症である能力と捉えた場合どうなるか?
これは皆さんに考えて頂きたいので、
今日の時点で私の例は書きません。
それにより何が得られているか、どんなメリットがあるか等、考えて頂きたいのです。
もし良ければこんなネタ出ましたって教えてもらえると嬉しいです。
私が考えたメリットは下記に書きます。
あがる能力
昨日、問題を能力という言葉に置き換えるという話をしました。
普段、問題として忌み嫌っていることを、能力という言葉に置き換えることで新たな発見があったりするというものです。
それで、あがり症という問題、あがることの問題を、あがり症という能力、あがる能力という言葉に置き換えて考えてみようと提案しました。
するとある方からコメントをいただきました。
一つは言動が慎重なので失敗が少ないとのこと。
なるほどなるほど、あがり症は不安と恐怖に備えるところがあるわけですから、慎重かつ失敗は少ないかもしれませんね。
これはあがり症の能力ですね。
他には、一生懸命に話しているのを見ると、誠実で信頼できる。
そうですね。
余裕ある人がぺランぺラン喋るよりも、余裕ない人が余裕ない中で必死に話しているのを見れば、伝わりますよね。
百術は一誠に如かずとも言いますしね。
ん?ちょっと違うかな?
私もちょっと考えました。
先ほどの方と似てるかもしれませんが、やはりあがるということは危険に備える能力に繋がると思うんです。
いわば天災に対するセンサーではないですけど、危険を察知するに敏なことで、備えも良しと。
他には、あがり症である事であがり症の方の気持ちがわかること。
あるいは、苦しんだことで人の痛みを知る人間になれること。
共感力の醸成ですね。
これは我々対人援助の仕事に携わる人間には欠かせません。
「日陰がなく日向だけの人間は暴力である」という言葉があります。
私は、この言葉に全面的に共感します。
何の失敗経験も困難もなく才華に恵まれた人間は、よほど気をつけないと言動や存在自体が人を傷つけることにもなりかねません。
ですが、あがり症になったことで他者の痛みに気付けるようになるのです。
まさに、あがり症者の能力と言えるでしょう。
他には、あがる能力として、向上心があるからこそあがるとも言えるかもしれません。
人より過剰なまでに理想が高いが為にこそ、いまの自分を受け入れられずあがってしまうのです。
こういったところでしょうか。
あがり症という能力。
あがる能力。
この発想法は何もあがり症だけに限りません。
問題と名がつくものには全て応用可能です。
うつになる能力。
キレる能力。
ひきこもる能力。
そういった発想で問題というものを眺めることができた時、より深みのあるものの見方ができるようになるのです。