アドラー心理学《自己受容》

昨日からアドラー心理学について書いています。
今日は「自己受容」について。

先日、私の所に来られた女性が言いました。
「甥っ子に料理を作ってあげたら、おいしいって言われて泣いちゃったんです。」

私は「ほう」と答えます。
嬉しかったのかな、と。

するとその女性が言うにはどうやら違うようです。
「最低の私が作った料理をおいしいなんて言われることはあり得ない。ショックのあまり泣いちゃったんです。」

皆さん、この心理状態分かります?

彼女の生い立ちは、虐待、DV等のある、機能不全家族と呼ばれるようなご家庭で育ちました。
おそらくは、自分はいけない子、自分はダメな子、いてはいけない子、そういった思いで生きてきたのではないかと思います。

そうして自分の人格を完全に打ち消して、そこで適合できる何らかの役割を演じてきたのです。
そこに本来の彼女はいませんでした。

家庭で認められることなく、自分で自分を受け入れることなく、つまり自己受容とは程遠い完全なる自己否定の世界で生きてきたのです。

そんな彼女が作った料理がおいしいと言われることは、想像もつかない事態だったのです。

また、とある男性は言いました。
「自分が自分のように思えないというのは本当につらいです」

その方は離人症と呼ばれる、自分が自分であるという感覚が持てずに、生きている実感を得られない病を持っていました。

鏡に映る自分を見て誰だこの人は?と思ったり、コンビニ等の防犯カメラに映る自分を見て知らない人のように思えたりして、自分を自分と思えない、生きている感覚が希薄な状態なのです。

そこに自己受容はありません。
なぜなら、その方にとって自分はいないからなのです。

これら二つの例は極端な例でしょうが、自己受容できているかいないかは、人が生きていく上で非常に大きな意味を持ちます。
それらは、自己肯定感、自尊感情と密接に関わるからです。

あがり症(社交不安障害、対人恐怖症)の方も、自己受容が下手です。
かくあらねばならない、こうあるべき自分が達成できない時、自分自身を否定します。

こんな自分はあってはならない、こんな自分はもう終わりだ、と考えます。
自分を受け入れられないのです。

アドラー心理学の第一人者の岩井俊憲氏は言います。

「あなたは、自分に欠点や気に入らない点があったとしても、自分をイエスと受け入れられますか?
それとも、自分に長所があってもノーと否定しますか?」

これは、勇気づけの心理学であるアドラー心理学で言う所の「勇気」を必要とする場面なのです。
自己受容とは、まさに勇気なのです。

あがり症の回復はここにあります。
あってはならない、受け入れられない自分を否定するのではなく、こんな自分だけれどもと、許し、受け入れることができた時、その時初めて、症状への囚われから解放された自分を感じるに違いありません。

私は、怖れる事態が起こった後で「まぁ、いっか」と思えるようになったことで相当救われました。

私達に必要なことは、自己受容する勇気を持つことなのです。

 

アドラー心理学《聴き上手の薦め》

勇気づけの心理学、アドラー心理学について引き続き語ります。

メンタル面で弱っていたり、疾患を抱えている人は、どうしても自分に厳しく採点しがちです。

厳しくすること自体は良いも悪いもないのかもしれません。
自己意識が高く、理想に向かって邁進する人は、自分に厳しくすることによってさらなる向上を図ることができるでしょう。

しかし、厳しくすることで自分にとって良くない結果をもたらしている場合は果たしてどうでしょうか。
本当は自分なりに頑張ったのにもかかわらず、重箱の隅を突っつくかのように悪い所を探し出して自分を否定する。
そして落ち込む。
落ち込むことで次に挑戦しようという勇気が萎えてくる。
挑戦しない以上、成功はできないので益々気持ちが沈む。
やがて引きこもりがちになってくる。

もう悪循環ですね。
これでは勇気づけでなく、勇気くじきです。

我々には自分を勇気づけることが必要なのです。
今日は自分自身を勇気づけるアイデアを一つご紹介します。

それは「聴き上手」になること。

対人恐怖症の人は会話することに恐怖を持つでしょう。
もう、人と話す時はドキドキドキンチョ?ですね。

誰かと一緒にいる時、何か喋らなきゃ、変なこと言わないようにしなきゃ、相手は自分を変な人と思わないかしら、などと考えます。
もう必死ですね。

対人恐怖の自分を守るために、あれこれ必死に考えるんですね。
しかし、それでうまくいった試しがあるでしょうか?

自分を守るために自分のことばかり考えて、結果として自分のためにならない。
これじゃあ、何のための思考、何のための行動でしょうか?

そもそも論として、話すのが苦手なんですよね。
どうしても話が下手なので、聞き役に回ってしまう。

だったら、話すスキルを上げるのではなく、聞くスキルを上げればいいのではないか?
そして人の話を聞く時、「聞く」のではなく、「聴く」に変える。

「聴く」とは何か?
「聴」という漢字を分解すると、「十」、「目」、「心」、「耳」になります。
つまり「聴く」とは、十の目と耳と心で「聴く」ことなのです。

そしてそれは相手に共感して聴くことを意味します。
つまり、真に共感できる「聴き上手」とは、相手の目で見、相手の耳で聴き、相手の心で感じることができる人のことを言うのです。

その「聴き上手」のスキルを二つご紹介します。

一つは「うなづき」。
相手の話を、うんうん、うなづいて聴くことです。
「うん」もバリエーションを持って、「うんうん」、「うん」、「ぅん」、「う~ん」など色々使っていくといいです。
首も時に小振りに、時に大振りにしてうなづく。

「うなづき」のマスタークラスになると、「うんうん」だけでも結構、相手を満足させることができます。

そしてもう一つが、「ハ行の法則」。
それは、「はー」、「は~ぁ」、「へー」、「ふ~ん」、「ほぅ」、「ほ~」といったものです。
感嘆や驚き、なるほどといった気持ちを示します。

これも声の抑揚を付けたり、語尾を伸ばしたり変えたりすることで、様々なバリエーションを付けることができます。
これをうまく使うと相手が乗ってくるんですね。
相手の喋りを促すのです。

これらの「うなづき」と「ハ行の法則」だけで結構、聴き上手になれるんですね。
つまり話し下手な自分を変えずして、会話上手になる。

それは自分への囚われから相手への関心を持つことで、対人恐怖の症状を和らげる。
そんな意味も持ちます。

それは他者を勇気づけしかも自分をも勇気づけることにつながっていくのです。