ハンセン病回復者の声

先日、ハンセン病回復者の講演会を聞いてきました。

ハンセン病とは古くは日本書紀や聖書にも記載されている病気でかつては、らい病と呼ばれていました。

非常に感染力の弱い病気なのですが、身体や顔が変形していく病気のため非常に怖れられ、特効薬であるプロミンが1943年に開発、普及するまでは、患者の方々は人里離れた場所に隔離される生活を余儀なくされました。

また、子供を生めないよう断種され、彼ら彼女らには人権や尊厳などなかったと言っても過言ではないかと思います。

彼らに深く関わった文筆家であり精神科医の神谷美恵子はそのあまりの悲惨さと不条理さに言いました。

「なぜ私たちではなくあなた方が・・・」

また、患者が出た家庭はそれだけで強烈な差別を受け、兄弟姉妹等は結婚も破談になり、仮に結婚するにしても身内の秘密として隠さなければできないほどのものでした。家族にハンセン病者がいるというだけで結婚、就職、集団生活が成り立たないほどだったのです。

現在は完全に治癒する病気のため、日本にいるハンセン病回復者の平均年齢は80歳を越えます。

この日講演された方も齢80を越えるご高齢の方で、患者自治会の会長やハンセン病記念館の語り部等の経歴のある方でした。

手や顔が変形しヨロヨロと登壇したその方が第一声を発しました。

私は、あぁ、と思いました。

しゃがれたダミ声でしかもモゴモゴして聞き取りづらいその方の声は、何かが違いました。

私は、講演の終わりの方で気づきました。その声の張り、抑揚、哀愁、全てが詰まっているかのようなその方の声は、人生を賭けて闘い、叫んできた方のそれだということに。

想像を絶するような差別を受け、苦しみ、国や制度、差別等、様々なものと闘ってきたその方の声は、心と声が完全なまでに一致していたのです。

一致しているからこそ人の心に響くのです。

私は、かつて自分のあがり症を、断じて隠し否定して生きてきました。それは自分の感情を一切表に出さないようにすることにつながりました。

発する声に、抑え込むがゆえの震えはあっても感情の抑揚はありません。人の心になど届きません。

最近強く思うのですが、あがり症は否定の病です。
緊張することなどあってはならない。声が震えてはならない。人に気づかれてはならない。こんな自分は受け入れられない。

自分を徹底的に抑えつけた声など、決して心と一致することはありません。

もっとも怖れていることを受け入れた時、あがっているということを認めた時、自分があがり症であると伝えた時、その時から逆説的にあがることから解放されていき、あがり症者の声は人の心に伝わっていくのです。

 

共同体感覚

昨日は日本心理学臨床・教育アドラー心理学研究会に参加してきました。
アドラー心理学は別名、勇気づけの心理学とも呼ばれ、私の方向性とも合致します。

アドラーはフロイトやユングと同時代に生きた人で、フロイトの勉強会に参加したこともありましたが、やがて考え方の違いから袂を分かち、離れていきました。

フロイトがリビドーやトラウマなどに焦点を当てた原因思考であったのに対し、アドラーは「どこから」ではなく「どこへ」という未来志向の視点を持つことが大きな違いです。というよりもむしろほとんど全てにおいて異なっています。

フロイトの精神分析は、時代に先駆けた点や人間心理の内面への探求という点においては功績があったのかもしれませんが、その実効性、つまり実際の臨床場面において効果があるかという点においては現在は裏付けるデータはあがっていません。つまり心理療法で効果があるとは認められていません。

フロイトの精神分析は、週3、4回で何年にも渡ってカウンセリングをするものであり、その多大な時間的費用的負担に対する否定から、現在の認知行動療法や解決思考アプローチなど結果が伴うものへと心理臨床の中心が移ってきました。

一方、アドラー心理学は共同採石場とも呼ばれ、その学説は認知行動療法、来談者中心療法、NLP、等々、現在の様々な心理療法に取り入れられています。いわば現代心理学の源流とも言えます。

そのアドラー心理学の概念の一つに共同体感覚というものがあります。これは相互尊敬・相互信頼に基づく人との関わりといったような意味を持ちます。私流の解釈で言えば、つながりとか絆といったような印象です。

これは人が生きるうえで大きな意味を持ちます。

私が以前話し方教室に通っていた時のある方の言葉を覚えています。
その方はとある上場企業の若き部長さんでした。話しぶりを見ていると声質が良く分かりやすい話し方で、何しにここに来ているんだろうといった風に思えますが、本人曰く人前だと緊張すると言うのです。

その方は役職上様々な場面で人前で話す機会があります。大舞台とも言えるような場で話す機会もあるでしょう。
ある日私ともう一人親しくしていたAさんに言いました。

「いや~、この前緊張する場面あったんですけど、その時佐藤さんやAさんの顔を思い出して踏ん張りましたよ~」

これね、よく分かるんです。
同じ悩みや苦しみなどを共有する仲間がいることは、ここ一大事での大きな支えになるんですね。

人は一人では生きられません。
人とのつながりを持たない人は、いざという時に崩れやすいのです。

私達は生きるうえで様々な人との関わりやつながりを持ちます。
家族、友達、上司、恋人、あるいは同じ悩みを持つ仲間かもしれません。
亡くなった方との心のつながりかもしれません。
あるいは歴史上の人物かもしれません。
憧れるアイドルかもしれません。
対象は人によって異なります。

現代社会において、年金や生活保護などが人の暮らしや生命を守るセーフティネットとして構築されています。
しかし、そこには見落としている視点があります。

それは人とのつながりです。

私達はアドラーの教えに帰る必要があります。
共同体感覚こそが我々の人生をいざという時に守る最後の砦なのではないでしょうか。