価値観の基準

シンプルに言います。
私達が立っている地点を0とします。

私達は生きている以上、どんな人であれどこかに向かって生きています。
生きる方向性です。

生活を良くしたい。
向上したい。
出世したい。
幸せな家庭を築きたい。
健康でありたい。
友達と仲良くやりたい。
楽しく生きたい。
より良くありたい。

生きる方向性を持っている以上、私達が行動することのほとんどは、0の地点から前に進むことに繋がります。

宿題を解く。
運動する。
おしゃべりする。
飲み会に行く。
筋トレする。
恋人に電話する。
子供を産み育てる。

0の位置に立ち、0から決して届かないかもしれない理想の100を目指して一つ一つ前に進んでいくのです。
今日も一つ進んだ。
ささやかな幸せであり、満足です。

時折、後退することあるでしょう。
生きている以上、それもいたし方ありません。

失敗もします。
挫折することもあるかもしれません。
絶望することもあるでしょう。

しかし、私達は、また立ちあがり、その時の0の位置から前に歩いていきます。
水前寺清子の歌の、3歩進んで2歩下がるは、あるべき真実を言っています。

ところがです。
時に0の位置に立っていない人がいます。

まるで幽体離脱したかのように100の位置に立ち、100の視点で0の自分を見下ろすのです。
立っている基準地点が100である以上、いかなる進歩も足りないと考えます。

0から1に成長しても、基準が100である以上、マイナスは99あります。
20に成長したとしてもそれはマイナス80です。

そうです。
99の極限まで成長したとしても、100から見下ろす限り、それはマイナスとなるのです。

これは実に苦しいことです。
時折いるのです。

我々から見たら、社会的にも成功し、幸せな家庭を築き、まるで理想のような人生を歩いている人が挫折感に苛まれていることが。

家族全員が医者の家系で、医学部に入れず薬学部に入った子。
同様に東大に入れず早稲田に入った子。
官僚の出世コースから外れた人。

私が、以前知っていた方で、正にこの例にあてはまる女性がいました。
家族が医師の家系で、彼女も医師でした。

詳しくは分かりませんが、留学したり、研究の方でも活躍され学生にも教えていました。
容姿も整っています。

誰もが羨むような状況にあった方だと思います。
しかし、彼女には唯一受け入れられないものがありました。

あがり症です。

華々しい能力と家系と生活と容姿を持ちながら、あってはならないもの。
それがあがり症だったのです。

傍から見たらさっぱり分かりません。
人前で饒舌に喋り、学生にも講義している。
緊張しているようにも見受けられない。

しかし、表情には間違いなく書いてありました。

自分を受け入れられていないと。
眉と目が曇っているのです。
断固として今の自分を否定しているのです。

100の完璧を崩す唯一のもの。
あがり症が、彼女の99の成功を全て打ち消していたのです。

一体何が私達の幸福を決めるのでしょうか。

私達は立ち位置をしっかり見定める必要があるのです。
つまり、価値観の基準です。

他者と比較した自分ではなく、理想像から自分を見下ろすのではなく、過去の栄光の自分ではなく、今の自分です。

今。
そうです。
今の自分、0の自分に返るのです。

私達は、0の自分から1進むことのささやかな満足を噛みしめる必要があるのです。

 

優越コンプレックス

昨日、福祉関係者の方々との飲み会に参加しました。
参加者全員が障害者関係です。

ある方が遅れて参加してきて私の隣に座りました。

聞けば、大阪に本部があり東京にも事業所がある施設の運営者のようです。

親子二代に渡って経営している所の若き2代目といった所です。
40歳ぐらいの方でしょうか。

座るや否や持論をとうとうと語ります。
自分が運営している事業について。

利用料だの、この事業の立ち位置だの、ある事業の法律改正に伴う今後の見通しだの。

ちなみに私は興味を持って聞いているわけではありません。

何か情報を得たくて、それで?とか、これは?などと聞いたわけではありません。

ただ、カウンセラーとしてのクセで、ふんふん頷いてただけです。

彼は、自分の一番詳しい得意分野の話を相手が興味を持とうが持つまいが、ペランペランと喋り続けました。

私は徐々に閉口してきました。

段々、ふんふんを減らし、代わりにパクらパクらと食べ、ゴキュゴキュとビールを飲み、時折り、他の人の話題に乗ろうとそっちを向きます。

悲しいかな、私の消極的努力は実を結びません。
知ってか知らずか、彼は私を捕まえて離しません。

しまいには理念を語り始めました。
ありがとうが大事だの何だのと喋ってます。

マジかよと、内心は思いながらも、ほう、そうですか~などとやってしまいます。
悲しい性(さが)です(涙)。

そして、福祉の職員はケース数だ、100人ケース持ってようやく分かるなどと言い始めました。

つまり、担当した方の数が100人行かないと一丁前になれないなどと言うのです。

ちなみにその方は20年ほどのキャリアを持っているとのことです。

私は何だよそれ、意味わかんねーよと思いつつ、はぁ、そうですかなどと聞きます。

はっきり言って物事には二面性があります。
良い面もあれば悪い面もあります。

経験を積むことはなるほど大切です。
しかし一方、長くやったからいいなんてことは決してありません。
その業界しか知らない視野の狭い人にもなりかねません。

私に言わせると3年5年と働いていくと、自分の仕事に一家言持つようになるのが自然です。

しかし、それが良い意味での信念になることもあれば、自分の価値観を押し付ける偏狭な人にもなり得るのです。

私は長く勤めればいいなんてことは決してないことを、何人も見てきました。

この若き2代目も見ているはずです。
じゃあなぜ、彼はこんなことを語り続けるのか。

ここからは私の推測になります。

彼はまだ親の威光がある中で、なんとか事業を運営をしています。

親との比較で見られ、劣等感を持ちながらも、それを乗り越えようともがいています。

認められたいがそうならない自分。
よって立てるほどの自信が持てない自分。

この場には彼の部下が何人もいましたが、部下から信頼を得られてない様子が如実に伝わってきました。

彼は示威を示す必要があるのです。
自分を高く見せなければならないと必死に自分をアピールしているのです。

劣等感を乗り越えるために優越を示そうとしているのです。

裏を返せば、彼は劣等感のいびつな形としての優越コンプレックスを持っているのです。

本当に自信がある人や信念のある人は、自分の業績に淡々といられます。

彼は孔雀が羽を広げるように、熊が両手を上げるように、自分を必死にアピールしていたのに違いありません。

私は、その毒牙にかかった格好の生け贄だったのです。
ふんふん聞いてくれる理想的なカモだったのです。

カモの私は、やがて逃げるようにトイレに行ったのでした。