アドラー心理学《共同体感覚》

アドラー心理学においては、様々な独自の概念が出てきます。
劣等感、劣等コンプレックス、優越コンプレックス、目的論、共同体感覚、自己決定性、使用の心理学、ライフスタイル、不完全である勇気、相互尊敬・相互信頼、etc・・・

思いつく限り挙げただけでも、ざっといろいろ出てきます。
その中でも、今日は共同体感覚について改めて感じたことがあったので、そのことを書きます。

アドラー心理学とは?と問われると、まだ学びの浅い私は戸惑います。
勇気づけこそアドラーかな?、とか劣等感かな?共同体感覚かな?とか。

私の対人援助の理念に勇気づけというキーワードがあるので、勇気づけを押したいのですが、共同体感覚も相当重要な概念であることにある本を読んで改めて気付きました。

その本は「勇気はいかに回復されるのか」(岸見一郎、訳)。

その本の中では、共同体感覚についての言及が数多くあります。
そもそも、共同体感覚とは何かですが、それは他者とのつながりであり、人との関わりであり、所属意識のことを言います。

震災時には絆と言う言葉がクローズアップされました。
まさに、共同体感覚の濃い言葉を意味していると言えるでしょう。

そして、共同体感覚への貢献がいかに大事であるか。
言葉では理解していましたが、アドラーの言葉に改めて感じ入りました。

アドラーは100年ほど前に活躍した方ですが、様々なクライエントに結果の伴うカウンセリングをしました。

そのアドラーが言うのです。
「勇気はいかに回復されるのか」(岸見一郎、訳)から抜粋します。

「私の努力の全ては、患者の共同体感覚を増すことに向けられる。私は病気の真の理由は協力しないことである事を知っている。そして、私は患者にもそのことを分かってほしい。仲間の人間に対等で協力的な立場で結びつくことができればすぐに治癒する」

「対人関係の問題は他の人に関心を持つ時にだけ解決されうる」

「私の行動が共同体にとって有用である時にだけ、自分に価値があると感じることができるという真理を認めることは、勇気を覚醒する際の最初の一歩である」

「犯罪の適切な予防は、適切な程度の共同体感覚である」

 

不眠症の患者には次のように言います。

「寝られない時には、どうすれば誰かを喜ばせることができるかを考えなさい」

つまり、アドラーは生きることに困難を抱える全ての人に対して援助する際に、共同体への貢献に向かわせることを主眼としているのです。

その共同体は一対一の関係かもしれない。
友人、夫婦、恋人。

あるいは複数なのかもしれない。
家庭、会社、近所、仲間。

あるいはもっと大きな範囲かもしれない。
地域、町、国、人間社会、地球。

いずれにせよ共同体への貢献感を増すことに、アドラーはカウンセリングにおいて特に意識しているのです。

私はこれらのアドラーの言葉に改めて勇気づけられました。
そうなんです。

私の元にこられる様々な悩みを抱える方々は、どうしても自分のことばかりに向けてしまいがちです。困難の最中にいるのですから当然と言えば当然でしょう。

しかし、与えることは与えられることです。
放てば手に満てりとも言います。

人は他者へ貢献することでいかに自分が満たされるのか、勇気づけられるのか。
人の役に立ち、人に必要とされることで、いかに自尊心を高めることができるのか。

私のカウンセリングの理念に改めて書き加えることができました。

それは、クライエントの共同体感覚を増加させること。
共同体への貢献を図っていくこと。

人は他者への貢献を通して自らが救われていくのです。

 

他害的対人恐怖症

社交不安障害と対人恐怖症については、このブログでは同じくくりとして扱ってきました。ただし、厳密に言うと違いがあります。

一つには、診断基準の違いです。
DSM-5というアメリカ精神医学会で作られた診断基準が今、世界基準となっており、その中に社交不安障害が入っています。

一方、対人恐怖症は日本固有の概念で、自分が他者に不快な思いをさせているという他害感が特徴の一つとしてあります。

私には、この他害感がかつて強くありました。
ただ、私の場合これは本当に変なものでした。

私はかつて症状が一番きつかった頃、マージャン店で働いていました。
マージャンは4人で行うゲームです。
お客さんが足りない時は、そこに店員が入ります。
ですから仕事のかなりの部分はマージャンを打つことでした。

ところで、その頃の私は、とてもりラッスした毎日など想像もできなく、毎日が緊張感に押しつぶされそうでした。
マージャンをしている時もでそうです。
マージャンをしているだけで、理由もなく緊張します。
息が吸いづらくなります。
場をピリピリさせていると感じます。
場がシーンと静かになります。
自分が楽しい雰囲気を壊してしまったと感じます。
その証拠探しをします。
周囲の一挙手一動足のかすかな変化を見逃さず、それを証拠に仕立ててます。
きっと間違いない。緊張感を周囲に移してしまったに違いない。
確固とした根拠などないのであろうにもかかわらず。

私はマージャンを打ちながらマージャンをしていませんでした。
マージャンを打ちながら、他者を不快にさせた原因探しをしていたのです。
緊張感を伝播して場を息苦しくしてしまったに違いないという、自責の念にばかり駆られていました。

一歩間違えば統合失調症と診断されても仕方がないような状態でした。
人は渦中にある時、自分の考えた突拍子もないことが真実として間違いないと思うことがままあります。
そこを少しでも緩め、ものの見方を複数持てるようになることが自分の苦しみを軽減する第一歩となるに違いありません。