あがり症はあがり症であるという事実だけで大きな可能性を秘める

社交不安障害者の66%は結婚せず、また彼らの社会的、教育的水準は平均を下回っているという調査結果がアメリカで2000年にありました。

ガーン!って感じです。
結婚していない私にとっては耳の痛い話です。

社会的、教育的水準は、生涯勉強し続けるから一応下回ってはいないと思うけど・・・

これは、特に自己主張が求められるアメリカ社会では、あがり症の方は特に生きづらさを抱え、社会的評価も低くなってしまうということが一面にはあるかもしれません。

しかし、私に言わせれば、これは一面しか見ていない片手落ちの調査だと思います。

これは治った方を対象としていません。
まぁ、当然と言えば当然かもしれませんが、あがり症者の特性を考えれば治った後の追跡調査があると更に良かったでしょう。

あがり症者はその半端ではない恐怖と不安と同じだけの生きる欲望を持っています。

より良くありたいからこその不安なのです。

つまりエネルギー量で言えば、

「不安=欲望」です。

そのエネルギーの大きさが、苦しみの最中は自分を苦しめる元となるのですが、治る課程においてはより良い人生の原動力となるのです。

あがり症の克服者は必ずや何かを成します。

自分の人生の実現という意味において。

他者や世の中への貢献という意味において。

あがり症者は、あがり症であるという事実だけでその中に大きな可能性を内包しているのです。

もう一度言います。

あがり症者は、あがり症であるという事実だけでその中に大きな可能性を内包しているのです。

セミが地面に出たとき歓喜の鳴き声を上げるように、あがり症者もまた世に声を発するに違いありません。

 

本当の人格や行動よりも見せかけの方が大切

アルフレッド・アドラ―の弟子で若くして夭逝したW・B・ウルフという天才精神科医がいます。

彼は、その古典的名著「どうすれば幸せになれるか?」で、あがり症を含む神経症と呼ばれるタイプの人の説明を見事に描き切っています。

本文より抜粋します。

「神経症者は自分の活動の舞台を狭めることによって、手に入れたいと望んでいた、主観的な優越感や安心感を手に入れる。生計を立てるための仕事に打ち込む代わりに、自分は生まれつき怠け者なのだという固い信念の後ろに逃げこむ。「もし私が怠け者でなかったら、誰にも負けないくらいできるんだが!」こう言って、自分の面目をうまく保つのである。広い場所を怖がる広場恐怖症という神経症にかかった、ある若い女性は、人が集まる社交場に思い切って出かけようとはせずに、家庭という居心地の良い領土の独裁的な女王になって安全を確保する。家庭のなかでは神経症ということを利用して、家族を皆、容易に支配することができるのである。家庭に閉じこもることで、自分の価値が試される場を全て避け、壁に囲まれた自分の寝室に閉じこもって、主観的な女王様の体験を重ねているのである。一日に八十回も手を洗う強迫神経症の患者は、同じように主観的な実力感と満足感を持つ。というのは、彼に比べると、一日に五、六回しか手を洗わない他の人間は、不潔なやつらだからである。神経症者のための十戒の四番目は、本当の人格や行動よりも、見せかけの方が大切である。うまく見せかけを作りなさい!」

 

何かをしないためには何らかの理由が必要なのです。

現実の困難に直面し、立ち向かうのを恐れ人生の脇道に行くためには、至極もっともな理由が必要なのです。

例えそれがいかに無益なものでも。

そうして作り上げた理由、すなわち中身のないハリボテの虚像をアドラー心理学では優越コンプレックスと言います。

あがり症の方で言うならば、平気なフリ、緊張していないフリ。

あるいは、もしあがり症さえなかったらと、可能性の中に生きようとする。

自分の価値が試される場を避け、ひきこもり、あるいは対人関係の場には極力行かない。

あるいは、ゲームや仮想の世界で一番になることで、見せかけの優越を得る。

人生の本当の目的は何ですか?

本当に見せかけの成功でいいのですか?