最近流行った映画で、先日アカデミー賞の4部門を受賞した「ボヘミアン・ラプソディー」があります。
映画チラシ ボヘミアンラプソディ クイーン
私も見ましたが、伝説のバンド「クイーン」のボーカル、フレディ・マーキュリーがクライマックスシーンである「ライヴ・エイド」でのシーンが印象的でした。
慟哭のような悲痛なまでの歌声を上げているシーンに、胸の奥底から突き上げるような何かが湧き上がり、涙が止まらなくなりました。
おそらく、この映画を見た方のほとんどがこのシーンに感動したのではないでしょうか?
それは、彼の避けられなかった運命、いわば光と闇の凄まじいまでの葛藤を、まるでフレディ・マーキュリーと同一化したかのように感じたからではないでしょうか。
彼の避けられなかった運命、それはジェンダーの問題。
彼はバイセクシャルで、エイズにより早逝しました。
それをホモというのか、トランスジェンダーというのか、LGBTと言うのか、私はそっちの分野は詳しくないのでよくは分かりません。
ただ、もし人が生まれる前に神と何らかの約束をできるのだとしたら、彼はまるで死神を前にして究極の選択、すなわち歌い手としての天賦の才と引き換えに、自らの壮絶な闇を受け入れたかのようです。
もしかしたら、彼のあの慟哭の様な歌声は、壮絶な闇なくしてはなかったのでは?なんて思いました。
私が随分前に関わった方にもジェンダーでの悩みを抱えている方がいました。
その方はしばしば言いました。
「佐藤さん、自分は昔からすごい違和感があるんです。なんで自分が男子トイレにいるんだろうとか、なんで自分におちんちんがついているんだろうとか、なんで自分が女じゃないんだろうって。」
そしてその違和感に苦しんでいると言うのです。
カウンセリングは共感が大事なんて言いながら、まだ覚えてたてだった私は、全く分からない世界に、はぁ、そうなんだと答えるしかありませんでした。
その方はやがて、自分に子宮があるのではないかと専門の機関に調べてもらいに行きました。
性同一性障害の方々の中には性転換手術する方もいます。
おそらく本来の自分と外見の自分のギャップに苦しむのではないかと思います。
自我違和感と言うのか自己不一致と言うのか、自分が自分でない感覚なのでしょう。
人はあるがままの自分でいられない時、生き辛さを感じます。
本来の自分と、世間でのギャップが大きければ大きいほど。
実は私も似たような違和感を抱えて生きてきました。
ただし、先述の彼らと違うのは、彼らは運命としてその違和感を抱えてしまったのに対して、私の場合は自ら意図的にその違和感を作り出してきたのです。
それは、自分が極度のあがり症であることを隠すために。
表面的だけでも、人より劣っていることを知られないために必死に隠しました。人に知られることは当時の私にとっては「社会的な死」を意味しました。
私は「フリ」をして生きてきたのです。
気持ちが動揺しているのに冷静なフリ。
緊張しているのに緊張していないフリ。
心臓がバクバクしているのに冷静なフリ。
それこそ全能力をかけて徹底的にやってきました。
いかなることがあっても自分があがり症であるということを人に知られてはならない、もし人に知られたら俺の人生は終わりだなどと、心底思ってました。
もうアホかって感じです。
「フリ」をすることで内面の自分と違う自分を演じることは極度のストレスとなります。心が悲鳴を上げます。ギャップが大きければ大きいほど苦しむのです。
ならばどうすればいいのでしょうか?
答えはシンプルです。
ギャップが苦しみの元ならば、ギャップをなくして自己一致させればいいのです。
緊張しているのなら緊張していると、あがっているのならあがっていると言えばいいのです。そして、自分があがり症であると告白すればいいのです。
理想の自分と現実の自分が一致する。
と言うよりも、理想の自分が現実の自分の位置まで降りてきたとでも言うべきでしょうか。
いわゆるこれが「あるがまま」の姿勢です。
以前の私にはこんなことを言うことはとても想像もできませんでした。
今は、しょっちゅう言い過ぎて、ネタにしてしまったり、ついでに本にまでしてしまいました。
でも実際問題、今、あがり症でな止んでいる方にとってはハードルは相当高いでしょう。
しかし、告白することがができた時、まるで「王様の耳はロバの耳!」と言うかのように自分を苦しめていたギャップから解放されていくのを感じることでしょう。
フレディ・マーキュリーは相当苦しかったでしょう。
もがき苦しんだでしょう。
当時の世相にあって、ホモセクシャルなりエイズなりを告白することは、彼ほどの地位にいる人にとっては不可能だったのかもしれません。スキャンダルです。本当の意味での「社会的な死」に繋がるほどの。
その内面の悲痛な叫びが、苦しみが、悲しみが、あの名曲「ボヘミアンラプソディー」で慟哭のように表現されたのではないか。私は強くそう思うのです。
映画com.作品情報
https://eiga.com/movie/89230/