生の感情体験を
社交不安障害(あがり症、対人恐怖症)の方で特にひきこもり傾向の方は、繊細で傷付きやすいため、性格もおとなしく弱々しい所があります。
実際、対人関係で傷付くことを怖れるがためにそういった場をなるべく回避し、身の安全を図ります。
また、人にどう見られるかという他者評価が判断基準となっているため、自分の言動を抑制し、他者に合わせようとします。
そうして自分の安全を図るために苦手な場面を回避し、他者の目を意識して演じる自分に疲れ果て、失望します。
そうして自信をなくし、ますます対人場面への苦手意識を強めていく。
悪循環ですね。
この悪循環の裏には、あまりに完全であろうとする欲望と強迫的なまでの完全主義があります。
一見おとなしく弱々しそうに見えて、実は誇り高さを持つのが彼らの特徴です。
かくあるべしという理想が高いだけでなく、かくあるべき理想の位置から今の自分を見るため、決して自分を受け入れられません。
故に、失敗する可能性のある現実体験を避け、あまり外部と交わらない観念の世界に生きるようになるのです。
また不安や恐怖はあってはならないものであり、それを否定し排除しようとします。
故に感情を認めず、感情を伴いうる体験を避けます。
つまり、社交不安障害(あがり症、対人恐怖症)の方は、現実体験も感情体験も同じ年代の人に比べて極端に少なくなります。
そもそも若い頃は失敗するのが普通です。
失敗を繰り返すことで、耐える力や立ち直る力、努力工夫する力を身に付けていくのです。
その経験をしないで歳を重ねることはリスクを伴います。
変化やアクシデントに弱い自分作りをコツコツしているようなものです。
そもそも生きる上で変化やアクシデントのない人生はありません。
それがあっても、たとえ完全に自分の望むようにならなくても、矛盾した世界を生きていく力を身に付ける必要が社交不安障害(あがり症、対人恐怖症)の方にはあるのです。
そのために必要なことは、まずは自分の悪循環に気付くこと。
そして、感情を否定せずに認めること。
そして、不完全な自分を受け入れること。
これらを真の意味で実践できた時、以前と違う自分がそこにいることにきっと気付くに違いありません。
私の性格傾向
今日はアドラーを一緒に学んだ仲間のコーチングを受けてきました。
コーチングとは、目標達成のためのコミュニケーションサポートといったようなもののようです。
分かりづらいですが、未来志向のカウンセリングといったところでしょうか。
いろいろな流派があるようですが、印象としては、主に精神疾患を持たない健常者向けのように思えます。
それで、先週、久しぶりにその方から連絡が入りました。
今、コーチングを学んでいるが、認定コーチとなるには100人の人とセッションしなければならない。
なので、コーチングをさせてもらえないかとのこと。
もちろん無料です。
こちらは快諾です。
ついでにコーチングのこと教えてもらおうと。
それで、セッションが始まりました。
テーマは何でも話していいとのこと。
どうも何を相談したらいいのか思いつきません。
起業のことが今一番頭の中を占めていることですが、別にこの場でコーチングしてほしいわけではありません。
まあ、あがり症のことも、今は特に相談相手が必要なわけではありません。
そんなんで、何を話そうかと、もにょもにょして話し始めたんですが、やがてうまい具合に誘導されたのか出てきました。
自分の軽いトラウマ体験的なものが。
ちょうど5年ほど前に専門学校に通っていた時、毎週のように飲んでいたのがですが、ある日苦手なカラオケに10人ぐらいで行きました。
当時の私は、今よりも輪を掛けて防衛的な所があり、かくあらねばという自分を演じていました。
また、周りに必死に合わせようとしていました。
そうして苦手なカラオケに行ってはみたものの、歌も恥ずかしくて歌いたくないし、勧められて何とか頑張って歌ってはみたものの全然楽しくありません。
しかし、周りは凄まじいばかりにハイテンションで飛んだり跳ねたり。
私はと言えば、それについていけなくて次第に何も話さなくなっていきます。
周囲から浮いていきます。
もう逃げたくて逃げたくてたまらなく帰りたいのですが、途中で帰るといかにも変で帰れません。
この状態の自分は情けなくてとても受け入れられません。
いるのかいないのか分からないような状態のまま、穴があったら入りたいような思いのまま、その数時間を過ごしたのです。
私はあまりに耐えがたかった出来事を思い出したのでした。
更につい数カ月前の出来事も思い出しました。
ある女の子が、支援者とともに私の元にきました。
その子は就職しており、今支援している方から私へと支援の引き継ぎのためにまずは顔合わせということで来たのです。
彼女は知的障害と緘黙という障害を持っています。
緘黙とは、家の中など親しい人の前だと喋られるのに、家の外に出たら全く言葉を発することができなくなるというものです。
面談が始まり、一緒に来た支援者の方がこれまでの流れと現況を私に説明し、それを受け私が彼女に私の所での支援内容を説明します。
とは言っても、緘黙なので無反応です。
さらには知的障害ということで、質問に対しての反応が相当遅いと事前に聞いていました。
なので私は、ゆっくり説明し一応相手の反応を確かめるのですが、無反応でもさらに確かめることはせずにそのまま続けます。
しかし、どうも違和感を感じています。
織り込み済みとはいえ、喋る間合いがつかめないのです。
やがて、無言で私を見つめるその子と、その様子を眺める支援者の方の目が気になり始めました。
話がぎこちなくなっていきました。
なので型通りの説明をしてそれで終わればいいのに、また例によっていいかっこしいというか、他者の視線を意識した行動に出てしまいます。
今回で言うなら相手の支援者の目です。
私のベースにある勇気づけスタイルの面談を見せようと無理にやってしまいました。
相手の強みや好きなことを見つけようと質問を重ねたのです。
それまで、時折はコクっと頷く時もあったので、それを期待したのですが、完全に無反応。
緊張と動揺でしどろもどろしながら「好きなことは何?」などと無理してテンション上げて聞いても無反応。
いつもならそれでもうまい具合に会話を持っていくのですが、もはや相手の支援者の方の目を意識しすぎて、間合いも何も、緊張と動揺のあまりもうグチャグチャでした。
撃沈です。
認めざるを得ないのですが今までで一番下手な面接でした。
これら二つの出来事をコーチングにより思い出したのでした。
この二つには共通点があるような気がしました。
それは、無理に自分を合わせたり演じたりすること。
一言で言えば、素の自分ではなかったのです。
そしてもう一つ、他者の目を過剰なまでに意識したこと。
これらは私があがり症になった所以というか性質だと思います。
あがり症は良くなりましたが、まだ本質的な部分までは良くなっていないのだなぁと感じた一日でした。
今後はありのままの自分、素のままの自分になることが私の課題でしょう。