感情は一次的に感じ切れば良い

森田療法創始者の森田正馬は、あがり症や対人恐怖症などの不安神経症の患者にとって望ましいあり方を、「あるがままに」生きることにこそあるとしました。

では、森田療法において「あるがままに」とはどういう意味を持つのでしょうか?

それは症状があってもそれはそのままにして、今目の前にある物事に集中するということです。

緊張がなくなってから行動するのではなく、びくびくするならびくびくするがまま、緊張するなら緊張するがまま人前で話す。

伝えるべきことを伝える。

不安がなくならない限りみんなとのお茶会に参加しない、飲み会に参加しないというのではなく、不安にかられながらも、え~い、ままよとばかりに参加する。

緊張や不安がありながらもそれはそのままにして恐怖突入することにこそ症状克服の鍵があるとしたのです。

言い替えるのなら、感情は一次的な体験にとどめるのがコツです。

あがり症の方は、緊張や不安、恐怖といった感情を一次的に体験するのみならず、その感情をあってはならないこととして二次的にも体験します。

この緊張はあってはならない、この恐怖を抑えなければ、この不安を何とかしよう。

そうやって、その感情をコントロールしようとしてコントロールできずに焦る。

もどかしさを感じる。
ダメだと思う。
そんな自分に失望する。
劣等感を感じる。

あまりにも一次的な感情に輪をかけて二次的に感じすぎているのです。
そこにはある過ちがあります。

あがり症の方にお聞きしたいのです。

悲しいことはあってはならないんでしょうか?
悔しいと思ってはいけませんか?
がっかりすることは良くないんですか?
辛いと感じる自分は弱いんですか?
怒りの感情が湧いてしまうのはダメなんですか?

そんなことはないですとあなたは言うでしょう。
そういった感情を感じることは変ではないと。

じゃあ、お聞きします。

なぜ、あがりに伴う緊張や恐怖はあってはならないんですか?
なぜ、緊張や不安を感じてしまう自分を徹底的に否定するんですか?

喜怒哀楽といった一次的な感情には罪はありません。

あなたは罪なき自分を罪人にする、まるで神をも超えた存在になろうとしているのかのようです。

緊張や不安、恐怖といった感情を裁くのではなく、感情はただ感じ切ればよいのです。

悲しいなら悲しいままに、辛いなら辛いままに、緊張してドキドキするなら緊張してドキドキするままに。

だいたい、そもそも論として、あがり症なんです。
人より緊張しやすいんです。
人より他者の視線に敏感なんです。

そんなあなたが、緊張を何とかしようというその発想が大間違いなんです。

あがり症を治そう、あがらないようになろう、不安と緊張をなんとかしよう、そこに答えはありません。

そこにウジウジいじいじもちゃもちゃとやっている限り、永遠にあがり続けます。

だって不可能を可能にしようとして、かえって炎上しているにすぎないんですから。

感情はそのままに感じ切って、その上で行動を増やしていく必要があります。

あがった時のコツ

あがり症を含む森田神経質の方々は段階的思考の傾向があります。

段階的思考とは、自分の症状がなくならない限り恐れている状況を回避するというものです。

そうして自分の行動範囲を狭めていくのです。

なるほど回避している限り失敗することはありません。
しかし一方、成功体験を持つことも一生ないでしょう。

人によっては一生抱え続ける悩みとなります。

私はそういう人も見てきました。
ある方は、不安や恐怖がある場面を避けることで自分の安全が保たれるため、危険地域には近寄りませんでした。

しかし、火山や原発事故のあった危険地域は避けることができても、はたして不安や恐怖という感情それ自体は避けることができるものなのでしょうか?

人が生きるうえにおいて不安や恐怖はつきものです。

あがり症~社交不安障害の方が不安や恐怖を避ける選択をした時、それは社交、すなわち人との関わりを持たないという決断になります。

私が見た方は、今目の前の恐怖から逃れるために、人との関わりを極力なくす回避的人生を選択しました。

不安や恐怖におびえながらも人と会話したり人前で話すことは、短期的には回避的人生を選択した方々より苦痛を味わいます。

その苦痛は社交不安障害の方にとって確かに相当なものです。

しかし、不安や恐怖という気分があっても、会話に集中したり、人前で伝えるべきことを伝えようとしたりして今目の前のことに集中し取り組み続けていくと、必ずや不安や恐怖が軽くなっていたり、あるいは不安や恐怖を忘れている瞬間があったことに気づきます。

それは、確かに最初のうちは砂上の楼閣のようなあるかないか分からないような瞬間かもしれません。

しかし、取り組み続けていく中でやがてそれは継続した時間となるでしょう。

あがることをあってはならないと打ち消そうとするのではなく、不安や恐怖は「あるがままに」今目の前の目的に取り組むことによって、付随してあがることが流れていく。

そしてあがることへの囚われがなくなっていく。
それこそが森田療法におけるあがり症の克服なのです。

あがっている時は溺れている時と同じです。

ジタバタすればするほど益々溺れます。

そうではなく、溺れた時はそのままに身を任せていけば良いのです。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」

(参考記事)
森田療法であがり症の緊張と震えを改善する三つのポイント