あるがままに飛び込む


今日は「あるがままに」というあり方について話していきます。

以前、「アナと雪の女王」というアニメ映画が流行ったことがありました。

自分の負のものを人に知られてはならないと必死に隠していた女王が、そんな人生にうんざりして、隠すことをやめます。

負のものがあってもそれが自分なんだと認め、受け入れること。
それが閉ざされていた女王の心を解き放ちました。

森田療法の創始者の森田正馬は、森田療法が対象とする森田神経質、いわゆる対人恐怖症などの不安障害の患者にとっての克服を、「あるがまま」の姿勢で生きることにこそある、としました。

では、森田療法における「あるがまま」とはどういう意味を持つのでしょうか?

それは、症状があってもそれはそのままにして、今目の前にある物事に集中するということです。

緊張がなくなってから行動するという姿勢ではなく、びくびくするならびくびくするがまま、緊張するなら緊張するするがまま、人前で話す。伝えるべきことを伝える。

不安がなくならない限り同級会に参加しない、ママ友とのランチ会に参加しないというのではなく、不安はありながらも、不安なままにエイっ!と参加する。

緊張や不安がありながらもそれはそのままにして、恐怖に飛び込むことにこそ症状克服の鍵があるとしたのです。

 

回避には副作用がある


森田神経質の方々は、段階的思考の傾向があります。
段階的思考とは、症状がなくならない限り、必要なことをやらないという考え方です。

そうして自分の行動範囲を狭めていきます。

なるほど確かに、回避している限り失敗することはないでしょう。
やらないのですから。けれど一方、成功体験を持つこともないでしょう。

人によっては一生抱える悩みになることがあります。
私はそういった方とも会ったことがあります。

その方は、不安や恐怖場面を避けることで自分の安全を保とうとし、危険な場所へは近寄りませんでした。

しかし、危険地帯を避けることはできても、はたして不安や恐怖を避けることはできるのでしょうか?

人が生きていく上で、不安や恐怖はつきものです。
社交不安障害の方が不安や恐怖を避ける選択をした時、それは社交、すなわち人との関わりを持たないという選択になるのです。

私が見た方は、今目の前の恐怖から逃れようと、人との関わりを少なくする回避的人生を選択したのです。

たしかに、それにはメリットがあります。

不安や恐怖を持ちながら人と会話したり、人前で話すことは相当な苦痛です。
回避的人生を選択した方々よりはるかに苦痛を味わいます。

ただし、短期的には。
まるでアリとキリギリスのキリギリスのように。

アリさんのように生きるのは大変です。
けれど、不安や恐怖を感じながらも、会話に集中したり、人前で伝えるべきことを伝えようとしたりしていく中で、必ずや不安や恐怖が軽くなっていたり、不安や恐怖を忘れている瞬間があったことに気づきます。

それは、確かに最初のうちはあるかないか分からないような瞬間かもしれません。
しかし、取り組み続けていく中でやがてそれは継続した時間となっていくでしょう。

あがることをあってはならないと打ち消そうとするのではなく、不安や恐怖は「あるがままに」今ある目的に取り組むことによって付随してあがることを忘れていく。

それこそが森田療法におけるあがり症の克服像と言えるでしょう。

 

弱さを受け入れ、目の前のことに集中する


では、そもそも、あがり症の方は緊張や不安、恐怖などに対してどのように対処するのでしょうか?

森田療法の祖、森田正馬はこんなことを言っています。

「・・・人為的の工夫によって、随意に自己を支配しようとすることは、思うままにサイコロの目を出し、鴨川の水を上に押し流そうとするようなものである。思う通りにならないで、いたずらに煩悶を増し、力及ばないで、いたずらに苦痛に耐えなくなるのは当然のことである。それなら自然とは何であるか。夏暑くて、冬寒いのは自然である。暑さを感じないようにしたい。寒いと思わないようになりたいというのは、人為的であってそのあるがままに服従し、これに耐えるのが自然である」

これは昭和初期に森田正馬が書いた文章であり、ちょっと読みづらい所もありますが、おおむね理解していただけるのではないでしょうか。

森田正馬による、あがり症の方が緊張をあってはならないと否定することへの問いかけです。

自然に湧き上がる不安や恐怖などの感情を抑え込もうとすることは、自然の摂理に反する不自然で人為的なことではないだろうかと。

緊張は緊張として扱い、不安は不安として扱う、震えは震えるままにする。
本当はただそれだけでいいはずなのに、その自然な感情を否定し、思い通りにしようとするあり方が、逆に緊張や不安、震えを増長させているのではないかと。

私も、あがり症に悩んでいた頃、いろいろやったものです。

試合前のボクサーのように気持ちを強く持って緊張場面に臨んでみたり、緊張することを考えず他のことを考えようとしたり、聴衆のことをジャガイモだなどと強く自分に言い聞かせてみたり、呼吸法などやってみたり、いやはや、ことごとくうまくいかないというか、むしろ逆効果でしたね。

かえって、あがっている自分に意識を向けさせ、あがりを強くさせるだけでした。

私は知らなかったのです。
自分の弱さや不完全さを認めることこそが本当の強さであることに。

この世の真実は逆説的なことが多いです。

溺れないようにともがけばもがくほど溺れてしまうのに、水の流れに身をまかすことで逆に身が浮かぶ。

二宮金次郎も言っています。

たらいの水を自分のほうに引き寄せようとすると水は向こうに逃げていくが、相手にあげようと押すと壁に跳ね返ってこちらに返ってくる。
得ようとして得られず、与えることで与えられる。

あがらないように、緊張することがばれないようにとするとかえって緊張してしまうのに、緊張してもいいと受け入れることでかえって緊張が和らいでいく。

いったい我々の努力とは何なのでしょう?

目指すべきあり方は、症状への囚われから離れ、その時々のあるがままになりきることにあります。

不安な時は不安になり、何かをしている時はその何かに集中する。
あがるならあがればいい。
震えるなら震えるままに。

その時々のものごとになりきることで症状への囚われから解き放たれていくのです。

そこに、本当のあがり症克服の秘訣があるのではないでしょうか。

参考記事
アドラー心理学によるあがり症の克服と改善のポイント

参考動画