あがり症は囚われの病です。
その症状に囚われている時は、他のことに意識を向けることがどうしても弱くなり、自然、自己中心的になりがちです。
別に人間性が悪いというわけではないのですが、もうキャパ越えしてまって他人に目を向ける余裕がないんですね。
これは何もあがり症の人に限ったことではありません。
他のメンタルヘルスで困難さや障害を抱えた人も同様です。
私は仕事柄、そういった方々と関わることが多いわけですが、そういった自己中心的なものの見方を強く感じるのは症状の重い方が多いように感じます。まぁ、重いからこそ余計自分に囚われるのは当たり前と言えば当たり前ですが。
時にマジッすか?!というぐらい理不尽なことを言われたりすることもあります。
前の職場では無茶苦茶なクレームやら、ノックアウト寸前のご批判でボコボコにされることもしばしばありましたが、幸い私はKYで空気読めないというか鈍いというか(本人は鈍感力があると言い張っている)を持ち合わせているので、その時はグロッキーでも翌日になると意外に平然としています。
それで何を言いたいのかというと、症状の重い人は自己中心的になりがちになるということは、裏を返せば克服者は他者視点でものを見られるようになってくる傾向があるように思います。
それは気づかいにつながり、他者への優しさや思いやりにつながります。
そして他者への優しさや思いやりは、そこで終わりになるということはありません。
「情けは人のためにならず」と言うように、それは何らかの形で必ず自分に返ってきます。因果応報として、好循環が回り始めます。
ところが、今現在あがり症の渦中にある方は考えます。
この病があるとなかなか・・・
この病が治ったらやるんだけど・・・
そうしてやらない方を選択する。
なるほど、そうなのかもしれませんね。
ですが、そんな方に聞きたいのです。
じゃあ、いつになったらやるんですか?
人はいかなる状況にあっても、本来、自分のあり方や行動は自分で決められるはずです。
なのに、私達は自分に負担がかかるものをしようとする時、できない理由を挙げていきます。こうだから、あぁだから、と。
それこそ重箱の隅をつついて、できない所探しをするかのように。
そして見つけます。
あら、こんなところにご飯粒が付いていたわよ。
おしょうゆが残ってるわね。
みたいに、ダメ情報を必死になって集め探します。<
けれど、やりたいことはどんな理由があってもなんとかしようとします。
私は学生時代、どうしても行きたいパチンコ屋の新装開店とバイトが重なった時、親戚のおじさんが亡くなったことにしてバイトを休んだことがあります。
どうしてもやりたいことは、いかなる困難をも乗り越えてしまうんですね。
ちなみに学生時代にそのおじさんを含め何人かが亡くなったはずなのですが、おかげさまで現在も元気に生きています。私はつくづくダメ男でした。
そんな嘘つきな過去を持つ私が、非常におこがましいのですが、ここでは良いことを書かせて頂きます。
それは、どんな風にしていけば貢献の好循環を自分に呼び込めるかという方法のことです。
何か良いことをやろうとすると、悲しいかな人間の性(さが)として、もしかしたら、お金ないからとか、あるいはあぁだからこうだからなどと出てくるかもしれませんので、ここでは何も持たなくてもできる方法をお伝えします。
そう、何も持っていなくても他者に貢献できる方法。
その知恵は中国の古典、「雑宝蔵教」に書かれています。
その中の無財の七施と呼ばれるものがそうです。
以下になります。
1.眼施(げんせ)・・・優しいまなざしで接する
2.和顔悦色施(わがんえつじきせ)・・・微笑で接する
3.言辞施(ごんじせ)・・・優しい言葉で接する
4.身施(しんせ)・・・体を使って奉仕する
5.心施(しんせ)・・・行為に思いやりをこめる
6.床座施(しょうざせ)・・・席や場所を譲る
7.房舎施(ぼうしゃせ)・・・宿や家に泊めてあげること
いかがでしょう?
この中に、お金や過度に労力を使うものがあったでしょうか?
ほんの些細なことで他者に貢献できるんですね。
私は、これを読むと自分を恥じ入るような気持ちになります。
読んで納得してもなかなか実践ができない自分は、いったい何をやっているんだろうと。
しかも、私はこの「雑宝蔵教」のことを自分の本に書いているからなさらですよね。まぁそうは言っても一方、この中から自分のできることが少しでもできればいいのかなとも思っています。
皆さんもまずは、あれやこれやと考えるより、今すぐにでも出来そうな簡単なことから始めてみませんか?
きっと清々しい気持ちになるかもしれませんね。
そしてそれが習慣となり、自分の生活に組み込まれていくことで、囚われ続けて生きてきた自分からは想像もつかないような自分になっているかもしれません。
そしてその時あなたは、あがり症のことを忘れていた自分に気付くに違いありません。
人は変われるのです。
いかなる人も。