私にはカウンセリングでの鉄板ネタが三つあります。
ここぞという時に使います。
まず、「できたこと探し」。
そして「感謝探し」。
そして最後に「味方探し」です。
あがり症の方は自分に厳しい方が多いため、自分のダメなところ探しをする傾向があります。
やれ、ここができていない。
やれ、これが足りない。
やれ、これじゃダメだ。
100あるうちの例えば90できているとしたら、その部分は当たり前のこととしてスルーし、残りの10できていない所に注目します。
この状態は精神的に不健康です。
苦しくなります。
しかし、習慣となっているため、どうしてもダメなところ探しをしがちです。
その習慣を改善するためには、いきなりは変えられないでしょうからダメなところがありながらも出来たこと、すなわち事実を探しをしてみてはいかがでしょうか?
それはいかなる失敗場面でもあるのです。
失敗したなかでもできたことを上げられるだけ上げる。
そんなことできないという方もいるかもしれません。
しかし、その人は変化を恐れ、できない自分のままでいることを決めているのかもしれませんね。
できたこと、できている所に意識が向けられるようになると気持ちは楽になっていきますよ。
そして次に「味方探し」です。
アドラー心理学の祖、アルフレッド・アドラーは言いました。
「・・・成人してから社会生活を避けようとする人の間に、人前で話すことができず、場遅れしてしまう人がある。聴衆は敵だと考えるからである。このような人は、一見したところ敵対的で自分より優れている聴衆を前にすると、劣等感を感じる・・・」(『個人心理学講義』アルフレッド・アドラー)
この心境って私よく分かります。
ていうか、あがり症の経験をしたことのある人なら、ある種、誰しもが経験しているのではないでしょうか?
で、これって何も人前だけでなく、ある特定の人や特定の集団に限ってそうなることってありませんか?
私の場合は相手が賢そうで回転早くて自分より優れていると感じたイケイケ圧迫系の人で、なおかつあまりいい感じに見えない人がいるとこの感覚を強く持ちました。
敵に違いないと。
そうすると何をするか?
もう決まっているんですね。
敵の理由探しです。
私を軽蔑しているに違いない証を探します。
他者の一挙手一投足に自分を否定しているに違いない証拠を探します。
この観点に立つと、ありとあらゆる他者の動きに過敏になります。
他者が
目を上げた時、
目を下げた時、
こちらを見つめた時、
目を外した時、
眉を動かしたとき、
口を動かしたとき、
手を動かしたとき、
他者と他者が話している時。
これは何も人前に立った時に限りません。
新しい場所に行った時、
他者と話している時、
集団の中にいる時、
失敗した時、
私は私が否定されている、軽蔑されている証拠を探し続けてきました。
あぁ、私の欠点を伺っている。
だから隙を作ってはならない。
あの表情はきっとバレてしまったのだ。
私の弱さを。
きっと攻撃するに違いない。
そして敵認定です。
あぁ、あいつは敵だ。
あの表情はきっと私に関心がなさそうだから敵に違いない。
あまり喋らないのは 私のことを嫌っているに違いない。
これじゃあ、世の中敵ばかりです。
自分のことながら、アホかって感じですね。
もうほどほどにすれば?と。
そこに他者信頼はありませんでした。
同時に自分への信頼もありませんでした。
しかし、世界が敵ばかりでなく、味方がポツポツと増えていくほど、あがり症の悩みが軽減していきました。
もちろん他の要素もあったでしょうが、明らかに味方の数と症状の重さは反比例しています。
あがり症というものは、たとえ症状が何ら変わらなかったとしても味方が増えていけば前よりも生きやすくなります。
そうすると、あがり症自体も次第に軽減していったり前ほどにはきにならなくなったりします。
そして味方探しに関連することで「感謝探し」があります。
ちなみに、私は、ずっと感謝という言葉の意味が分かりませんでした。
いや、正確に言えば言葉の意味は分かっても、それを実感したことがなかったのです。
今にして思えば、正に感謝の有無、感謝の程度が生きやすさに比例して生じるのを実感します。
あがり症は他者の評価に囚われる病です。
そこに自分はいません。
自分の存在意義は、他者に認められたかどうか、他者から否定されていないかどうか。
価値判断は他者です。
他者である以上、自分の力は及びません。
あがり症者は、価値判断を自分に取り戻す必要があります。
人生にうまくいっている人ほど感謝します。
うまくいってないあがり症者は感謝が乏しいです。
当然です。価値判断が他者である以上、自分から感謝することは容易ではないでしょう。
感謝することは自分を取り戻すことに他ならないのです。
そして感謝の力は図り知れません。
感謝は万能です。
あがり症者が、日々、毎々、感謝探しをしていく中で、やがて主体性を取り戻し、価値判断もまた取り戻していくことでしょう。
そして、森田療法の祖、森田正馬が良く用いた言葉で「外相整えば内相自ずから熟す」という禅の言葉にあるように、まずは感謝の言葉を言ってみるのでも十分効果があるように感じます。
感謝の言葉を言っていると、次第に後付けで心が追い付いてくる、そんな印象を持ちます。
猫の目、鳥の目で、感謝探しをしていけば、必ずやあなたの人生に変化が訪れるに違いありません。
以上が、三つの「○○探し」です。
こういったことを、その時々でその人に最も有効そうなものを提案します。
あがり症の方(対人恐怖症、社交不安障害、書痙、赤面症、どもり等々)の方は、まるで魔法の薬を求めるかのようにポンと飲めば治る薬を求め続けます。
待てません。
まるでこの世界のどこかにある青い鳥を求めるように。
けれど、結局生きづらさを抱えている人っていうのは生活習慣病なんですね。
小さい頃から今に至るまで、人っていうのはたとえそれが自分を苦しめる考え方だったとしても、その考えを確かめ続けて生きてきたんです。
例えば、以下のようなもの。
人は私に厳しい。
私は一人でいると何もできない。
私は弱い。
私はここぞというときに失敗する。
この世界では弱いものは否定される。
私は失敗してはならない。
私は優れていることで他者から認められる。
そういった信念を持っていると、どうしても日々の人との関わりのなかでそれを確認してしまいます。
やっぱりあの人は冷たい、やっぱり私は失敗する、やっぱりみんな私のことを冷たい目で見ている、etc・・・
確かにそうかもしれないけれども、そうでないかもしれない。
真実は分からないのに他者の目の中、他者の中に、そして自分自身にそういったものの証拠探しをして確認してしまうんです。
あぁ、やっぱりそうだったと。
だからそれを断ち切るのが、さっき言った味方探し、感謝探し、できたこと探しなんですね。
生活習慣には生活習慣で対抗していくんです。
回り道に見える道こそ最も近道です。
特効薬の薬物療法は、近道だけど人生の遠回りをしています。
本質的なアプローチこそが、あがり症の表面を治さずしてあがり症の根本を治していくに違いありません。
ここからは余談です。
あるセミナーでのことでした。
終了後の懇親会でイケメン探しという話題で盛り上がりました。
自分が元気になるんだったらイケメン探しが良いんじゃないですか?という話になったんですね。
ほほー、なるほど。
新宿の街に来たらすれ違う人々の中にイケメンを探し続ける。
見つけたらドキドキ嬉しい、そしたら気持ちが活性化する。
だったらそれやれば良いんじゃないですかと。
それ行きましょうと話しました。
で、佐藤さんは?と聞かれました。
え?俺?
誰が好みですか?と。
答えました。
ガ、ガ、ガッキー。
だったら人にばっかり言ってないで佐藤さんもやって下さい。
待ち受けにガッキーの恋ダンス貼ってください。
ううっ。
一理ある。
そして今、残念ながら私の待ち受けにはガッキーが乗っていません。
けど、一時期、萌えたのでガッキーと石田ゆり子の恋ダンスをしばしばYouTubeで眺めたのでした。