ノーブレス・オブリージュ
今日は裏話。
私はカウンセリングだけでなく障害者の就労支援の仕事もしています。
その仕事の中で、企業訪問して障害者を雇ってくれ~みたいなこともしています。
よくハローワークの人とタッグを組んで、障害者をあまり雇ってない突っ込みどころのある企業へ、良く言えばお願いを、悪く言えばプレッシャーをかけに行くのです。
ただ、先方にもいろいろ事情があるわけですので、こちらもガンガンやるわけでもなく、いろいろ制度や障害者雇用について話したりあれこれ提案したりしてご検討のほどを程度で帰ってくるのですが、数ヶ月前にとある精神科病院に行ってきました。
精神科病院にこそ障害者をという思いもありました。
当初は病院の事務長が対応するはずでしたが急用とのことで総務の誰それが対応するとのこと。
ふ~ん、何か微妙な思いがしました。
やがてその方が来て名刺交換しました。
おっと~、無表情極まりないです。
そして面談室に通され話が始まります。
ハローワークの方がペラペラ制度や障害者雇用の近況について話し、この病院の現状について確認します。
やがて一段落ついた所で、総務の方が言いました。
「仰ることはよく分かりました。なるほど障害者雇用の必要性は理解しました。ただ、うちは障害者雇用義務の対象ではないんですね?」
確かにその通りです。
病院の規模がそれほど大きくないので障害者雇用の必要性はあっても、障害者を雇っていないことによる納付金と言うお金を納めなければならないわけではありません。
「大体、どこ行っても同じようなことを話されているんでしょうけど~」
おっと~、きっつい枕詞ですねぇ。
その総務のおっさんは(もはやおっさん呼ばわり)、舌が滑らかに回ってきました。
ぺランぺランと持論を展開します。
「この人員の少ない中なんで好き好んで障害者を~」
「だいたい、例えば待合室にいる患者が受付の中に精神障害者がいるのを見たらどう思うか~」
ん?なんだそりゃ?言っている意味がようわからん・・・とは思っても表面では淡々とおっさんの話を聞いています。
そして、次の言葉が出ました。
「そもそもこの制度も障害者雇ってる所に金出すっていうのもあれじゃないですか、あくまでも私個人の見解ですが、原発置くから金出すっていうのと同じじゃないですか・・」
私は思わず語気を強めて「それは違うと思います・・」と言いました。
おっさんは気付いたのでしょう。
はっとして言葉をつぐみました。
そもそも病院を代表して面談している以上、個人の見解もへったくれもありません。
この言葉は、〇〇病院との障害者雇用についての面談時での発言となります。
この発言は公に出れば問題となるでしょう。
ただ、相手の言葉尻を捕まえてやりこめるために来たわけではありません。
ましてや正直そんなことにエネルギーを使う気もありません。
我々は不快な思いを強くしてその場を後にしました。
現在、超高齢化社会、労働力人口の減少といった時代の流れの中、やれ企業の社会的責任だ、CSRだ、ダイバーシティだなどといった難しい言葉はさておいて、障害者雇用をどんどん進めていくことが求められています。
その中で精神障害者のことを一番知っている精神科病院こそが障害者雇用を嫌がる傾向があります。
精神障害者はうちではムリだと言います。
はっきり言います。
私はプロ失格だと思います。
それらの病院には私が支援している障害者も通っています。
そんな病院は、だったら医師の意見書で就労可能などといった言葉は書くなと言いたい。
もちろん、すべての病院がそうだということはないでしょう。
良心的病院もあれば尊敬すべきお医者さんもたくさんいます。
しかし、地域の何百社という企業回りをしているハローワークの方が言うには、精神科病院に関係なく病院こそが最も高飛車で失礼な言動をするとのことです。
医療に携わる方は知っているでしょう。
ヒポクラテスの誓いという言葉があります。
この誓いの主旨は、自らの専門性に驕らず、医療に仕える、目の前の患者に仕えるといった意味を内包しているのではないかと思います。
こういった姿勢は医療職に限りません。
我々対人援助職も一緒です。
高い地位にあるもの、専門的知識を有する者にはそれ相応の高い義務があるというノーブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)という言葉を強く意識し、自らを律していく必要性があるのではないかと思います。
マインドフルネス
先日、私の職場が主催の元、地域市民向けにマインドフルネス講座が行われました。約50名の市民の皆さんにお越しいただき、もちろん私も主催者側として参加しました。
マインドフルネスとは、ちょっと紙面で伝えるには分かりづらいのですが、瞑想やヨガとも似ています。
現代精神医学事典(弘文堂)には次のようにあります。
1979年にジョン・カバットジンによりマサチューセッツ大学医学部にストレス低減プログラムとして創始された瞑想とヨーガを基本とした治療法。慢性疼痛、心身症、摂食障害、不安障害、感情障害などが対象となる。ジョン・カバットジンは鈴木大拙の禅に影響を受け、仏教を宗教としてではなく人間の悩みを解決するための精神科学としてとらえ、医療に取り入れた。その基本的考えは、煩悩からの解脱と静謐な心を求める座禅に軌を一にしている。マインドフルネスの語義は”注意を集中する”である。一瞬一瞬の呼吸や体感に意識を集中し、”ただ存在すること”を実践し、”今に生きる”ことのトレーニングを実践する。これにより自己受容、的確な判断、およびセルフコントロールが可能となる。マインドフルネスは認知行動療法に取り入れられ脚光を浴びるようになった。しかし、認知行動療法は認知の変容を目指すのに対して、マインドフルネスは認知のとらわれからの解放を誘導する。
ん~、なんか余計に分からなくなりそうですね。
私なりの解釈で説明していきます。
感情の揺れが激しいとその感情に我々は振り回されます。
例えば、会社員の夫がいつも会社帰りに飲みに行って帰るのが遅いため、寂しい思いをしている妻がいるとします。終電で帰ってきた夫に妻は言います。
「あなた仕事でもないのに毎晩毎晩いったい何時だと思ってるの!?」
怒りをぶつけるわけですね。
これは本来の感情は「寂しい」という感情であるにも関わらず、それを「怒り」で増幅して表現したわけです。
また、例えば人前で話すのが苦手な社交不安障害の人がいるとします。来週、朝礼で話をしなければならないことになりました。
人前で話すことに緊張する人は結構いますが、普通はその時だけドキドキするわけです。
ところがその人は、その時のことをあれやこれやと想像して何日も前からドキドキするという予期不安に襲われます。
わずか数分であるはずの緊張や不安という感情を何日も前から増幅させるのです。
こういった上記の例のように、感情には、一つの感情が起こることで更に感情の波が増幅していく傾向があるのです。
では、どうすれば良いのか?
それがマインドフルネスです。
最初に起こった感情を、ただ感情そのままに眺める、あるいは、そのままに体感するのです。それにより感情の波は確かに最初は波打ったものの、やがて自然に凪いで行くのです。
そうやって感情に限らず、今この瞬間の自分を見つめる、ただひたすらに今この瞬間をあるがままに体感するのがマイインドフルネスなのです。
それにより自分の感情の波を穏やかなものにしていくのです。
対人恐怖症の精神療法である森田療法の「あるがまま」と非常に似た考え方です。
このマインドフルネス講座は2時間ぐらいの短い時間でしたので正直もの足りなかったです。
ですが、マインドフルネスは続けていくことで結構役に立ちそうだなと思いました。