健全な「べき思考」をしよう
最近、認知行動療法を扱う機会が増えています。
仕事上、何らかの悩みを抱えた人に接する毎日なのですが、そこで認知行動療法を使ったり、あるいは同僚が担当している方にやってくれないかという依頼が増えています。
また、間もなく職場で集団認知行動療法を定期的に実施することになっていますし、カウンセラーの知り合いから来月認知行動療法のセミナーをやってほしいという依頼がありました。
日本で認知行動療法の普及に努められてきた大野裕先生のご尽力が実ったのか、実際にその効果が認められて世間の人に周知されてきているからなのか、その辺のことは分かりませんが、自分のスキルを活かし向上していく機会が増えていくことはありがたいことだと思っています。
よく誤解されがちなのですが、認知行動療法はマイナス思考をプラス思考に変えるものではありません。
人間、そんなに簡単なものじゃありません。
ただ、極端に偏った考え方をしていると自他共に悪い影響を及ぼすことがままあります。
その典型的な例が、最近のイスラム国です。
彼らは最初は、純粋にイスラム教を信奉していた敬虔な信者だったのかもしれない。
しかし、その教義を厳密に信じ込み、それを自分に課すだけでなく周りへも求めることによって排他的な原理主義者になってしまったのでしょう。
そして時に攻撃してでもあるべき姿にせねばならないとして、実際の行動を伴わせていったに違いありません。
これが「べき思考」の最悪の例です。
「こうあるべき~」「~ねばならない」などとして自他を縛るのです。
本来、「べき思考」は決して悪いものではありません。
向上心の強い、例えばアスリートや芸術家は「かくあるべし」という理想に向けて妥協をゆるさないからこそ、人を感動させるものを生み出すのでしょう。
何も特別な人に限らず、我々庶民にとっても、「こうあるべき」というものが健全に働いて努力していくことによって、人生をより豊かなものにしていくことができるでしょう。
また、「べき思考」が弱い人は、適度にリラックスした自然体の人になるかもしれませんが、一方怠惰な怠けもののような人になってしまうかもしれません。
要するに何がいいか悪いかなんて曖昧なものです。
バランスの良い見方と多面的なものの見方ができることが、柔軟な人間形成と居心地の良い人生を生むのです。
社交不安障害の方は当然のようにこの「べき思考」が強いです。
それによって苦しんでいる人が一体どれぐらいいることでしょう。
正式な調査データはありませんが、日本には約300~1700万人ぐらいの社交不安障害の方がいると言われています。
それだけの方が、今よりほんのちょっとでも「べき思考」を緩めることができたらどんなにか生きやすくなり、日本の生産性や活力があがっていくことでしょう。そこにほんの少しでも貢献できたらいいなぁと思います。
変えられないものを受け入れる静けさを
先日、私の所に来た若い女性は、就労が長続きしないで苦しんでいました。
物覚えが悪かったり、人との会話が上手くいかない、そして居づらくなってやがて1年ぐらいで辞める。
そんなことを繰り返していたのです。
これを繰り返していると自尊感情を傷つけていき、段々に自信を失っていきます。
彼女は更に、人から追い打ちをかけるようなあまりにつらい一言を言われながらもけなげに頑張っていました。
彼女はこれらの体験を経て、再度チャレンジし、乗り越えなければならないと考えていました。
私は即座に否定しました。
その必要はない、と。
彼女のこれまでのエピソードを聞いていき、発達障害の特性があるのが分かりました。
人の説明を聞いていると最初に言われたことを覚えられない。
臨機応変な仕事ができない。
全ての音が同時に耳に入るため、電話の際に誰かが近くで話していると電話の内容が全く聞きとれなくなる。
人には努力して良くなるものと、いくら努力してもどうにもならないものがあります。
それが障害なのです。
彼女はこの障害の所を何とかしようともがいていたのです。
私は彼女に言いました。
「障害の所は努力してどうなるものではない、そこは何らかの手段でカバーするものだ」と。
「例えば足の悪い人が杖を突くように、目の悪い人がメガネをかけるように。」
「そしてあなたは仕事上相当な生きにくさを抱えてきたはずだ」、と。
彼女は肯きました。
そして続けました。
「これまで一年しか続かなかったと言ったが私からするとそれは一年も続いた、だ。」
彼女はキョトンとしました。
構わず続けます。
「仕事している時楽しいことなど何もなかったと言ったが、それだけのつらい思いをしてきたんですよね」、と。
彼女は肯きます。
「たまたま、本当にたまたま、私はあなたと同じような悩みを抱えることはなかった。」
彼女は私をじっと見ます。
「だけど、もし私があなたと同じようなレベルの苦しみを抱えていたら、一年は持たなかっただろう。
とっくに辞めていたはずだ」、と。
「あの人もそうだ、みんなそうだ。
しかし、あなたは辞めなかった。
それだけの苦しみを抱えながらも何とかしようと踏みとどまった。
だから、私に言わせれば、一年しか続かなかったのではなく、それは一年も続けたのだ」、と。
彼女は泣き始めました。
私は彼女に次の詩を紹介しました。
<ニーバーの祈り>
神よ
変えられないものを受け入れる静けさと
変えられるものを変える勇気と
そして変えられるものと変えられないものを見分ける英知を与えてください
私は彼女に、あなたに今最も必要なことはこれなのだと言いました。
私達はともすればこれを見間違います。
あがり症者は、変えられない「あがる」ということを受け入れることができずに生きています。
しかし、「あがる」ことは変えられなくても、あがりながらでも行動は変えられるのです。
私達は、変えられるものと変えられないものをきちんと見分ける必要があるのです。