不登校の子がいたとします。
周りの人たちは考えます。
どうしたんだろう?
いじめ?
学校の先生?
勉強に付いていけなかった?
親の育て方?
しかし、本人に聞いてみても答えてくれません。
学校の先生に聞いてみても良く分かりません。
しばし、本人ですら理由が分からないこともあるかもしれません。
アルコール中毒の方がいたとします。
どうしてそうなったのか知りたくて聞いてみます。
すると彼は答えます。
「いろいろあってねぇ」
なるほどそうでしょう。
もともと心が弱かったのかもしれない。
つらい経験をしたのかもしれない。
離婚したのかもしれない。
成育歴が大変だったのかもしれない。
依存的体質だったのかもしれない。
いろいろあるでしょう。
けれど、特定のこれこれだったからとは言えないかもしれません。
このようにある状態において原因を探してみてもなかなか見つからないことがあります。
科学や産業分野においては、なぜ?なぜ?と原因追及していくことで改善が得られるかもしれませんが、こと人間の行動においては原因を調べてみても分からないことが多いです。
現代心理学の祖とも言えるフロイトは、原因論に沿って理論を展開していきました。特に、抑圧された性が現状の問題を引き起こしていると考えました。
これに異を唱えたのがアルフレッド・アドラーです。
人は遺伝や育て方などの原因が自分の行動を決めているのではない、未来をどうしたいのかという目的で自分の行動を決めているとしたのです。
具体的に見ていきましょう。
朝、学校に行こうとするとおなかが痛くなります。
休むことが決まると治ります。
医者で調べてみても問題ありません。
これは、本人も知らずしてお腹が痛くなることによって学校に行かないという目的をかなえているのかもしれません。
学校に行かないことによって、目の前の課題から逃れられる。
人間関係で避けたい人がいるのか、あるいは他の何かの理由か。
これを疾病利得と言います。
リストカットします。
それによって、何らかの目的を適えます。
自分のストレスフルではちきれんばかりに膨れ上がった心を何とかしようと、苦しみから逃れようとしているのか、あるいは他者からの注目を求めているのか。
言うことを聞かないで勝手なことばかりする部下に怒ります。
それによって、何らかの目的を適えようとします。
部下が自分の言うことを聞くように、言葉で説得するよりも手っ取り早い「怒り」という手段で目的をかなえようとしているのか、あるいは自分のプライドを傷つけたことを復讐しようとしているのか。
全ての人間の行動には目的があるのです。
アドラーは、「人は目標や目的なしには、思考、意思、感情、行動が機能しない」と言います。
舞台に上がって、役柄や役割など何らかの目的がないとそこでどう振る舞えばいいか分からないと。
人間は行動や感情を使って何らかの目的を適えているのです。
これを「使用の心理学」と言います。
では、あがり症(社交不安障害、対人恐怖症)の方の場合はどうでしょうか?
極度の緊張場面が予想される場合、不安が大きくなります。
なので、その場を避けます。
「不安」という感情を使って危険を察知させ、心の負担が生じる場面を回避しようとしたのかもしれません。
自分の変な表情が相手に変に思われるのではないか不快な気持ちにさせるのではないかと考えます。なので、マスクをします。
マスクを使って、自分の表情を悟られないことで安全を手に入れようとしたのかもしれません。
ところが、皮肉なことに、これらの「使用」の仕方は本質的解決には結びつきません。
皮相的、表面的な解決を手に入れただけで、また同じような状況があった時、あるいは似たような状況があった時、徒手空拳ではなす術がないのでまた同じ防具を使うのです。
やがて、防具なしでは生きてはいけないようになります。
突発の事態で防具がない時、うろたえます。時に死を意味します。
ここで大事なことは、使用する行動や感情は自分自身で選べるということです。
つまり人は自分の意志でいつでも自分を変えることができるのです。
さらに言うならば、人はいかなる状況においても、自分の行動は自分で選ぶことができるのです。
あがり症の方々がやってきたことは、今の苦しみからの逃れるための目的は「善」、行動の「過ち」だったのではないでしょうか。
良かれと思って取ってきた行動が自らを更に苦しめるという。
アドラーから学んだ人で、アウシュビッツから奇跡的に生き残った精神科医のヴィクトール・フランクルは、極限の状態における人間の行動を目の当たりにしました。
それは時に醜いものもあったでしょう。
しかし、死と毎日隣り合わせに生きている中で、自分より弱っている人に、持っている一かけらのパンを与えている人、優しい言葉を掛けている人も目撃したのです。
彼は後に言いました。
「あらゆるものを奪われた人間に最後に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由だった」
あがり症の方々がこれまで選んできた行動を止め、もっとも恐れる選択肢を選ぶ。
それは、あがりに対して一切何もしないという選択肢なのか、あるいは、あがりを認め、あがることはもうしょうがないんだと受け入れ、あがらないようにではなくきちんとあがりきる、あがったままに持ちこたえる。
私は、そのあり方をどうやって、あがり症の方に納得してもらい、その行動を促すことができるのだろうかといつも考えています。
なぜなら、あがり症の方々が最も恐れるそのやり方こそが答えなのだと確信しているのですから。