あがり症に伴う緊張や不安などの症状に悩んでいると、耐えきれずになんとかしなきゃとあれやこれやと考えます。
こうすれば良いのだろうか?
こうしなければ良いのだろうか?
そうして様々なことを試みます。
そして考えます。
これが良かったのか、あれが良かったのか。
いや待て待て、今度はこう考えてこうしてみればいいんじゃないかと。
結論を言いましょう。
全てがうまくいかないでしょう。
あがり症は囚われの病です。
あがらないようにとあがることばかり考えて、緊張しないようにと緊張することばかり考える。
あがり症の症状に注目している限り、右に行こうが左に行こうが、あれをしようがあれをしまいが全て逆効果となるのです。
大切なことは、症状のことはそのままに、症状を抱えながら目の前のことに集中していくことです。
あがり症の方はあがることに対する耐久力が弱いです。
あがることに耐えきれずに、あがらないようにと必死にアレコレ取り計らい、あるいは極力あがる体験を避けようとします。
そのための努力たるや涙ぐましい限りです。
けれど、実は努力すべき方向を間違えてるんですね。
そもそもあがることは生きていく上で避けられません。
ましてやあがり症です。
あがることをなくそう、あがってはならない、あがらないようにする。
そんなことは果たして可能なのでしょうか?
あなたは何か思い違いをしていないでしょうか?
人間誰しもに自然に備わる、湧き上がる感情、それを抑え込む。
あなたは一体、神にでもなるつもりなのでしょうか?
あがることに対するアプローチが完全に間違っているのです。
暑いから冷房を付ける、寒いから暖房を付ける。
その発想に慣れ過ぎて、あがるから下げようとする。
そうじゃなく、あがらないようにではなく、あがることを持ちこたえる、あがったままに我慢し続ける、その能力を高めることが一つには大事となるでしょう。
筋肉と一緒です。
鍛えることができます。
あがり耐久筋を高めるのです。
そうすればやがてあがることに耐えられるようになっていきます。
耐えられるようになって、マックスの緊張を感じ尽くせば、やがて時間と共にあがりは収まっていくでしょう。
だから私は言うのです。
あがってください。
もっとあがっていいんです。
あがったままジーっと我慢し続けてください。
そして、緊張や不安などがなかったらやろうではなく、緊張と不安を抱えながら前に進む。
症状を異物とせず、症状を必然として受け入れるのです。
あがり症の克服を諦めるのではなく、あがり症の症状を諦めるのです。
そのあり方を続けていけば、やがて抱えていた荷物の重みを忘れていることに気付くことでしょう。
そんなことできないと言うかもしれません。
今この苦しみから解放されたいんだと。
あがり症の方はリスクを取らずして結果を得ようとします。
虎穴に入らずんば虎子を得ずと言いますが、虎穴に入らずして虎児を得ようとする。
この世界のどこかに魔法の薬があって、パクっと飲めばあらま!と緊張しなくなったり、あるいは宝くじでもあたるかのように、いつかヤッた!なんて濡れ手に粟なこと願ってはいませんか?
あがり症の方は克服には泥臭さや地道さ、辛抱といったものが必要です。
イチローはそのコメントにも定評があり、様々な名言と呼ばれるものを残しています。
その中の一つにこうあります。
「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道」
私たちは、いつも楽をしたがります。
しかし、あのイチローでさえ小さいことを重ねることと言っているのです。安易な道はないということなんですね。
私はあがり症になりたてのホヤホヤの頃、いつかまるで風邪の熱が下がるかのようにあがり症が自然と治るものだと思っていました。
しかし、下がるどころか、パンパンに熱は上がり続けました。
1年がたち、2年がたつ。おかしいな?と。
5年10年 ……この頃になるとあれ?もしかしてと思います。
私はやがて、ほっといても熱は下がらないことに気付きました。
苦しい最中には手っ取り早く治る方法がないかと模索しました。
ありとあらゆるものを探しました。
しかし、私が探したものは幻の不老不死の薬でした。
そんなものはなかったのです。
いつしか20数年が過ぎました。
私のあがり症克服はあまりに遅々としていました。
私は不器用でした。
私は一人でした。
私のあがり症克服は、お恥ずかしながら、ただただ恐怖突入しただけです。うんざりするほどの一進一退でした。
まるでタマネギの皮を一枚一枚重ねるかのようなものでした。
しかも今考えると随分と誤った方法もしてきました。
そして、ただただ恐怖場面に突入し続けていく中で、ふと気づいたときに、いつの間にかこんなところまで来ていたというのが私のあがり症克服です。
美談も何もありません。
あがり症の治り方は人ぞれぞれですが、私にはハイこれが一番効きましたなんてものありません。
むしろ、恐怖突入していく中で、絶句して声が出なかったり、時に逃げたり、胸がつぶれそうになったり、本当に泥臭いだけのものです。
私は、恐怖に怯え、満身創痍なまま、ただただバッターボックスに立って空振り三振をし続けてきただけなのです。
もし、もし少しだけ誇れるとしたら、イチローの言う「小さなことを重ね」てきたからこそ今があるのかもしれません。
バッターボックスに立たなければ三振すらできないのです。
三振しない人生って成功なんでしょうか?