あがり症の方々を見たことはありますか?
どこにいるのでしょうか?
そんなによくは見かけないですよね。
あがり症は大体10~20人に一人ぐらいいると一説には言われますが、普段誰かがあがっている所を見かけることはあまりないのではないでしょうか。
けれど実はそれは当然のことなのです。
あがり症の方は見た目では実はサッパリ分からないという人が意外に多いのです。
なぜなら、あがり症の方にとって、自分があがり症であるということが人にバレるかどうかというのは死活問題なので、必死にあがってないフリをするんですね。
緊張してても冷静なフリ、頭が真っ白になっても動揺を隠す、手が震えたら必死に抑える。
なぜ、そこまでしてあがり症であることを隠すのか?
それは、あがり症の方は自らの価値がなくなることを最も恐れるからです。
だから常に警戒します。
人との交わりにおいては、自らの価値を損なわせるような人がいないか常にアンテナを張ります。気が休まる暇がありません。
アドラー心理学の創始者、アルフレッド・アドラーは言いました。
「・・・成人してから社会生活を避けようとする人の間に、人前で話すことができず、場おくれしてしまう人がある。聴衆は敵と考えるからである。このような人は、一見したところ敵対的で自分より優れている聴衆を前にすると、劣等感を感じる・・・」
『個人心理学講義』アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ)
あがり症の方々は、あたかも敵国の中にいるかのようです。
隙を見せたらやられるぐらいの気持ちで。
誰かが自分を攻撃するのではないかと、他者の目、他者の言葉、他者の動きに、全神経を集中させます。上目がちに盗み見るように人の様子を伺う。
自分が否定されたり軽蔑されている証拠を徹底的に探しまくります。
微かな変化も見逃しません。
人のあらゆる言動、あらゆる表情を自分への否定的要素として関連付けます。
そして思います。
やっぱりそうだと。
軽蔑されたに違いないと。
嫌われているに違いないと。
そして失望します。
あぁ、バレてしまった以上、自分はもうここにはいられない。
もうここではやっていけない。自分の素性が知られてしまったに違いない。
さながら都落ちした平家の落ち武者のように。
……それってホントですか?
証拠は?
証拠の根拠は?
精神疾患に詳しい人なら思うかもしれません。
被害妄想じゃないか、統合失調症では?などと。
けれど、統合失調症とあがり症は全く異なります。
統合失調症の被害妄想は、電波で自分の悪口が流されているであるとか、FBIが私のことを追っているなどといったような非現実的な妄想ばかりなのですが、あがり症の方の被害妄想的な思考は理解可能なものです。
それは誰にでもありうる考えをあまりに極端に思い込んでしまって、あり得ないことを体感しているようなものです。
けれど、本人にとっては真実なので辛いのは間違いありません。
まるで鏡の向こうの虚構の世界を生きているようです。
そうして、他者の目、他者の言動に囚われるようになっていき、やがて本当の自分、ありのままの自分を見失います。
それは、あたかも人の思惑の奴隷になっているようなものです。
あがり症の方に真に必要なこと。それは、奴隷からの解放です。
他者の目に生きた人生から本当の自分の人生を取り戻す。
人前で話すのを恐れ続けたある方は言いました。
伝えることを何も考えてなかった。
人の目ばかり気にしていたと。
自分の価値が試される場面を避け、自分の価値が下がるのを怖がり、群衆の中に敵を探す。
失敗したら自分の価値はない。
失敗したら自分の居場所はない。
失敗したら敵にやられる。
だから、見せかけの鎧を着る。
だから、表情のない能面をかぶる。
だから、本当の自分を隠す。
アドラーは言いました。
劣等感を隠すための優越コンプレックスと。
必死につま先立ちして大人であるかのように振る舞う子どものように。
鎧を脱ぎましょう。
地に足を付けましょう。
本当の自分を生きましょう。
鎖に繋がれた奴隷だったことにも気づかずに、自分を押し殺してきたその足かせを、その鎖を、取り外すのです。
獄舎の中での虚構の世界から飛び出して、本当の自分の人生を生きる。
そこに待っているのは決してバラ色の世界ではなく、良きにつけ悪しきにつけ、ただただ現実の世界。
けれどそれは、虚構の世界の悩みから、現実世界の悩みへと転ずる。
そしてそれは、真の喜びをも感じられる。
他者の目に囚われ、他者の目の奴隷となり、他者の目に適うように生きてきた自分から真の自分へ。
そこから広がる無数の選択肢。
自分の心に聞き、自分の価値観に従い、自分の望みに生きる。
それが、あなたにとっての奴隷解放記念日。
あなたの奴隷解放記念日はいつですか?
真の自分の人生はいつ始まるのですか?
それともこのままの人生を続けるのですか?
時が来たら決めるものでもなく、
誰かが導いてくれるものでもなく、
いつかその日がやってくれるものでもない。
あなたが決め、あなたがあなたの人生を生きるのです。