明治、大正、昭和において生きた人で、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作等々の日本の歴代総理の指南役ともいうべき人物がいました。

安岡正篤という方です。

東洋史、とりわけ中国や日本の古典の思想、学問を究めた人と言っても過言ではないでしょう。

政治、経済界におけるリーダーの中のリーダーとして仰がれ、逸話には事欠きません。

第2次大戦の際に昭和天皇が読み上げた終戦の詔は、安岡正篤が草稿しました。

また、昭和初期に双葉山という横綱がいました。

現在の横綱白鵬が時代を超えた師と仰ぐ力士で、69連勝という未曽有の記録を打ち立てました。

その双葉山が70連勝を達成できず敗れた時のことです。
双葉山は、師と仰ぐ安岡正篤にすぐさま電報を打ちました。

「イマダモッケイタリエズ」
「未だ木鶏たりえず」と読みます。

これは中国の故事にある逸話から来ています。

鳥を闘わせる闘鶏ということが行われていたようですが、最強の鶏は木でできた鶏のように何があってもビクともしないという逸話です。

前人未到の70連勝に届かなかった双葉山は、相撲の師ではなく、思想の師に、自分の未熟さを報告したのです。

そしていよいよ本題ですが、この安岡正篤がものの見方の3原則として次のものを挙げています。

「根本的、多面的、長期的にものを見ることが大切」と。

ちょっと分かりづらいですが、これ、あがり症など精神的に余裕がない状況の人を考えると分かりやすくなります。

まず、ものの見方が根本的ではなく表面的になります。

何を伝えたか、分かりやすく言えたかどうかよりも、緊張してるのがばれずに言えたか、声を震わすことなく言えたかどうか。
中身より見てくれなんですね。

そして、多面的ではなく一面的に見ます。

この失敗は絶望的だ。
私は変な奴だと思われたに違いない。
誰も近寄って来ないだろう。

本人が思う10分の1すらも、周りはそうは思っていないのが真実です。
けれど本人にとっては疑いようもない真実です。

そして次に、長期的ではなく短期的に見ます。
こんな自分じゃ一生結婚できない、こんな自分じゃ昇進することなどない、友達なんてできっこない。

本当にそうでしょうか?
誰かにそんなこと言われたんですか?
その根拠は何なんですか?

あがり症の真実は彼ら自身の幻想の中にあります。
たとえ他の誰にもその幻想が見えていなかったとしても。

物事をシンプルに考えてしまうのです。

白か黒か、ゼロか百か、全か無か。
灰色もグレーもない、ハッキリしすぎているんですね。

そもそも、特に治そうと思えば思うほど治らなくなるあがり症(書痙、どもり、赤面)などの厄介な人間心理に、シンプルな捉え方はいったいどこまで通用するのでしょうか?

推して知るべしです。
かないっこありません。

けれど、考えに考えるあがり症者は必ず自分なりの対応方法を見つけます。
その一つが、ターゲットを一点に絞る効率化思考。

あがり症の人は考えます。

こんなに苦しいのも、こんなに生き辛いのも、こんなにうまくいかないのも、全てはあがり症のせいだ。

これさえなければ、あんなことできるのに、あんなことするのに、あれにチャレンジするのに。なのに、なのに、これがあるばっかりに・・・

そうだ、だからこれを治そう。
この症状を、この緊張を、このあがり症を。

そして、これが治ったら初めて、これまでやれなかったこと、これまで避けたり逃げてきたりしたあんなことこんなことに挑戦しよう。

そう、だから、今このあがり症さえ解決できれば……

これを読んでいるあがり症(対人恐怖症、赤面症、どもり、書痙、自己臭恐怖、等々)の方に、率直に言います。

私自身がこれまで会ってきたあがり症の方の中で、上記の発想で解決した方は一人もいません。

ちなみに、この発想は最も症状が重かった日々の私自身の真実です。

正にこのように考えました。
そして知っています。これと同じようなことを考えている、あがり症のあなたのような人がこの世にたくさんいるということを。

あがり症の症状が重い時は、孤独に陥りがちです。

「小人閑居して不善を成す」ということわざがあります。

これは、ちっちゃい人物は暇があるとろくでもないことしかしないといったような意味です。

これはある意味、あがり症にも通じます。

「あがり症閑居してあがりを盛んにす」

あがり症は暇があればあるほど、あがりのことばかり考えてあがり症を真っ盛りにしてしまいます。

あがり症に暇はハッキリ言っていりません。

あがり症の人にとって、症状のことを考えている時間は害悪以外の何物でもありません。

全てが逆に向いた刃となって自らを苦しめます。

あがり症の方が考えた思考に答えはありません。
あがり症の方が行動したことに答えがあります。
あがり症の方に必要なことはとにかく行動です。

あれやこれや考えているより、今必要なことをしましょう。
今できることをやりましょう。

症状は不問で結構です。
あがり症の方はあがりに対してはなす術がないのです。

緊張と、不安と、震えと、恐怖と、赤面と、多汗を、なんとかしようなんて、そんなことできる人いるんですか?

会ったことありますか?

そうじゃない。
何度も何度も私は言い続けていきます。

緊張も、不安も、震えも、恐怖も、赤面も、多汗も、症状はそのままに、是も非もなく感じ尽くせばやがて流れていくでしょう。

それが、あがり症の克服です。
その時、あなたはかつての自分とは違う世界にいる自分に気付くでしょう。

その時、あなたはしゃっくりや、咳や、頭痛と同じように、あがりを苦痛だけど単なる出来事として体験するに違いありません。

無色透明のあがりという出来事として。

今日の前半でお伝えしたように、上がり症の方のものの見方は極端に偏っています。

その見方を前提として対処してきたからこその今です。
だから、これまでのあなたのやり方に答えはないでしょう。
違ったものの見方が必要なのです。

決めつけることなく、柔軟に「根本的、多面的、長期的」なものの見方をして、それを元に行動していくことで、世界は変わっていくに違いありません。