(近日予定講座!)
「あがり症克服日めくりカレンダー」出版記念セミナー【新宿7/15】
アドラー心理学において劣等感についての概念がしばしば使われます。
少し解説します。
まず、「劣等性」。「器官劣等性」とも言います。
これは、自分の身体的なハンディキャップを言います。
生まれつき障害をお持ちの方だけでなく、人生の途中で事故に遭って車椅子生活になるような中途障害の方も同様です。
次に「劣等感」。
これは自分自身への理想と現実のギャップから湧いてくる陰性感情を言います。
そして「劣等コンプレックス」。
これは劣等感が異常なまでに高められて、自分の人生の課題から回避しようとする態度のことを言います。
そしてもう一つ、「優越コンプレックス」。
これは劣等コンプレックスのコインの裏表です。
劣等コンプレックスが回避によって自分がみじめな思いをしないようにするのに対し、優越コンプレックスは、見せかけだけでも取り繕ってみじめな思いをしないようにするものです。
一般に劣等感と言うとマイナスの印象を受けるかもしれません。
しかし、アドラー心理学においては劣等感を健全なものとみなします。
身体にハンディキャップを持ったが故に、それをバネにして活躍される方は多いでしょう。
埴輪保己一という学者が江戸時代にいました。
ヘレンケラーが幼少期に母親からその名を聞いて、心の支えとしたと言っています。
埴輪は7歳の頃失明し、学問で身を立てました。
暗記能力にたけ、人が音読したものを暗記して覚えたようです。
「群書類従」という書物を編纂し、数万冊の古文献を記憶した驚異の人と言われています。
埴輪は正に、盲という劣等性にもかかわらず自分の人生を切り開いた人です。
また、心理学者、精神科医、カウンセラー、精神保健福祉士といった方々には自分自身が心の悩みを持つ、あるいは持っていた人が多くいます。
私もその一人です。
あがり症で悩み、苦しみ過ぎたので、逆に一番の専門家になってしまいました。
私も含めこういった方々は、自分自身の劣等感を元に人生の選択をしてきたとも言えるでしょう。
アドラー心理学の創始者アルフレッド・アドラーは言っています。
「全ての人は、劣等感を持っています。しかし、劣等感は病気ではありません。むしろ健康で正常な努力と成長への刺激です」(「個人心理学講義」生きることの科学)
しかし、一方、劣等感が異常なまでに高まって自分の人生の課題から降りてしまう人もいます。それが先ほど挙げた劣等コンプレックスです。
あがり症の方にもいるでしょう。
あがり症の方は困難場面、すなわち人前で話す場面を回避します。
私も、あがり症になってからの約10年間は恐怖場面から徹底的に回避しようとしました。劣等コンプレックスそのものです。
私が回避した10年で学んだもの。
それは、人生において逃げおおせることはできないということ。
それは、麻薬であり一時の快楽にすぎず、結果的には自分を蝕むものであること。
それは、自分の自己肯定感や自尊心を、著しく傷付けるものであること。
私は繰り返しこのブログで言ってきました。
回避の悪影響を。
私は重度のあがり症でした。
ゆえに、あがり症の恐怖から回避した実体験者です。
そして今はカウンセラーや講師として、様々なあがり症の方に会い、あがり症から回避した人を見てきた目撃者でもあります。
回避し続けた人間でより良く生きている人を、私は一人も見たことがありません。
あがり症の方に伝えたいのです。
回避の恐ろしさを。
あがり症の恐怖場面の心理的負担は、体験した者にしか分からない本当に苦しいものです。
あまりの恐怖に逃げてしまうこともあるでしょう。
ガタガタ震える人もいます。
泣く人もいます。
固まって呼吸ができなくなる人もいます。
それは一人では抱えきれるものではありません。
あまりの恐怖に立ちすくみ前に進めない方は、どうか他者の存在を知ってほいいのです。
他者とのつながりを持ってほしいのです。
同じ悩みを持つ仲間。
克服した人の存在。
精神科医などの支援者。
こういった方々とつながりを持つことで、恐怖や苦しみは変わらなくても、勇気や希望を持つことができるのです。
孤立だけはいけません。
人とのつながりが人を活かすのです。
あがり症の方々には、克服した後、自分の才能を活かし活躍されている方が多くいます。
当然です。
生きる欲望が強いからこそあがり症になったのですから。
彼ら彼女らは、押しつぶされそうなほど巨大な「劣等感」をそのまま生きる力へと変えた人間なのです。
今、死ぬほどの思いを抱えている方、どうかあきらめないで欲しいのです。
人との交わりに恐れた人は人との交わりによってこそ救われます。
繋がりこそ力。
繋がりこそ勇気。
それが、困難を前にすくみそうな思いでいる時に、立ち向かう原動力になるのです。
人は、いかなる状況にあっても自分の生き方は自分で決められるに違いありません。