あがり症(社会不安障害)の極意は治さずして治すことにあり

求めれば求めるほど得られず
求めることを止めたとき得られる

もっともっとと思えば思うほど満たされず
もっとからほどほどに変わったとき満たされる

眠りたいと思えば思うほど眠られず
眠ることをあきらめたとき眠りに落ちる

あがらないようにと思えば思うほどあがり
あがることを受け入れたときあがることから解放される

我々は何か勘違いしてはいないでしょうか?
あたかも万能の神にでもなったかのように。

私たちは愚かにも気づいていないのではないでしょうか。
何を求めていいのか、何を求めてはいけないのか。

求めてはいけないもの、それは人間の力では及ばないもの。
それを求めることは、あたかも不可能を可能にしようという試みです。

その時、答えは逆説にあります。

あがり症は、あがらないようにと思っている限りはあがり続け、あがりを諦めた時あがりが収まっていきます。

あがり症とは心の免疫反応なのです。
異物化している限り、活性化し続けますが、あがりを自分のものとして受け入れた時、免疫反応が収まります。

その時、あなたのあがり症は治さずして治るでしょう。

人生の脇道で必死に生きるあがり症(神経症)者

親しい人がいる場だとあまり緊張しないという人がいます。
一方、誰も知らない人だけの方が緊張しないという人もいます。

これらは全く正反対のように見えます。
けれども根本は一緒です。

それは、自分がどういった状況の時、自分の自尊心が最も脅かされるのかの違いだけなんです。

人前で話す時は脅かされることは変わらないわけです。

恥をかくかもしれない。
みっともない姿をさらすかもしれない。
あがり症がバレるかもしれない。

あがり症の方は自分の価値が試される場面を最も恐れます。

たまたま条件が違っているだけで同一線上の出来事なのです。

この様に考えるのならば、表面的な改善は何ら役に立たないことが分かります。

その人が緊張するある特定の状況をテクニックで緩和したとしても、また違った状況になった時、自分の価値が損なわれる恐れのある場面になると、あたかも時限爆弾でセットされていたかのようにとある症状が爆発してしまう。

これは何もあがり症に限りません。
あがり症のタイプの方々はこだわりが強い傾向があります。

たまたまあがり症が改善したとしても、今度は身体症状に過敏になってドクターショッピングをしまくったり、あるいは眠れないことにこだわって益々眠れなくなったり、あるいは何度洗っても洗っても清潔になっていないと手を洗い続ける強迫行為に悩まされる。

自分の体臭が相手に不快な思いをさせているに違いないと思い込み、相手の表情から不快さの証拠探しを必死に行う。

こだわるからこそ余計はまってしまうんですね。
本来の目的とは異なることに人生をかけているんです。

あがり症なり、パニック障害なり、強迫性障害なり、そういった神経症傾向の方は、時に人生のメインストリームから外れた脇道で一生懸命に生きます。

ところで、あなたの人生の本当の目的ってなんなんでしょう?
この人生が終わるその瞬間、どう生きてきたらあなたは納得して死ねるんでしょうね?