久々の自己嫌悪体験
あがり症の人は頭でっかちの人が多いです。
あれこれ頭の中で考えすぎるのです。
やれ、これはあってはならない。
やれ、こう思われたのではないか。
やれ、あぁなったらどうしよう。
とにかく、先のことを良からぬ方に頭の中でシミュレーションし、人の考えや気持ちを悪い方向に深読みする。
すると、行動も取って付けたような行動をしがちになります。
人と話す時も話す内容よりも人の目に意識が行き、会話がずれていきかねません。
などと言いつつ、実は私も数日前に久しぶりにこのパターンで、自己嫌悪に陥る出来事がありました。
私は基本的に、結構自己肯定感の高い人間です。
しかし、今回ばかりは全くダメでした。
苦しくて苦しくてたまりませんでした。
私の最も苦手なパターンのオンパレードでした。
そうなると私はほぼ喋る気力を失います。
自分の発する言葉が何を喋っても否定されそうで、あるいはスルーされそうで言葉を出すことが怖くなり、ただひたすら人の話を聞いているだけになります。
お地蔵さんです。
普段のカウンセリングの「聴く」とは似ているようで全く違います。
地蔵なので、言葉は耳に入りません。
ただサラサラと流れていきます。
そして、あたかも敵国の中にいるかのように敵探しをし、自分が否定されているに違いない要素を他者の目、他者の行動の中に探し出し、見つけ、落胆し、自己否定します。
このパターンは本当に久しぶりでした。
その場から逃げたいのに、身体が固まり動けなくなり、ただその場に苦しいままに留まり続けます。
数年ぶりぐらいに翌日以降にまで引きずりました。
結局、今日に至って何が私の気持ちを回復させたのか?
それは、一つには結局他者との繋がりの確認でした。
そして今朝、布団の中で悶々とする中で気づいたことは、私は他者のことを思いやってなかったという事実です。
私には30代半ばで自分自身に課したミッションがあります。
それを元に、私はいざという時に本気を出す人間と思っていました。
勇気をくじかれた人や希望を失った人に、本気を出せばいいと思っていました。
だから、普通の人?と言ったら変ですけど、特に輝いてうまくいっているような人にはあまり力を使わないというか、貢献心が薄いというか。
その時、私のようなあがり症タイプの人間には何が起こるか?
それが消極的自己中の態度です。
誰かに積極的に悪いことはしないが、自分がどう見られているか自分がどうであるかといった自分のことばっかりを考えるようになって、自分のことを思えば思うほど益々苦しく、悪循環に陥っていくのです。
それが今回の大きくへこんだ体験の核心ではないかと考えました。
今回の体験を機に、もっと、いろんな人に優しく接していこうと思ったのでした。
できるかな?と自分に問いつつ。
可能性の中に生きる~自分をも騙して
あがり症の方は、様々なプレッシャーのかかる場面でためらいの態度を見せます。
そうして、もっともらしい理由をタンスの中からでも、辞書の中からでも、ドラエモンのポケットな中からでも引っ張り出してきます。
時に自分自身をも欺いてまで。
そうしてその理由の中に逃げ込みます。
なぜならそこが安心基地だから。
外敵や災害から身を守るための。
アルフレッド・アドラーは言います。
「敗北を排除することによって優越性の目標を得ていた。対人関係で敗北することはなかった。人の中に入っていかなかったからである。仕事でも敗北しなかった。仕事に就いていなかったからである。愛においても敗北はなかった。愛を避けていたからである。主観的には、彼は人生において勝利を収めており、自分自身の条件で完全に人生を生きていた。」
(『人はなぜ神経症になるのか』アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ)
これを可能性の中に生きると言います。
ひょっとしたらできるかもしれない、やればできるという可能性、できないのではなくやらないからであるという可能性。
敗北せずに勝利するかもしれないという可能性の中に浸るのです。
そうして「私はできない」という現実が突き付けられることを回避し、「私はできる」という余地を残そうとするのです。
しかし、やがて知るでしょう。
自分を敗北から守ろうとして得られていることを維持するためには、永遠に可能性の中に生き続けるしかないという事を。