教育とは火をつけて燃やすことだ

もう既に亡くなられた方ですが、平澤興という京大の総長を務めた方がいます。
その方のエピソードで、若干細部は異なるかもしれませんがご紹介させて頂きます。

昭和30年代の頃でしょうか、ちょうど学生運動が盛んなときに京大の総長を務められていました。
学生による過激な運動もあり、授業などが成り立たないような状況の中、ある日、総長室に京大の学生達がなだれ込んできました。

学生達は総長にあれやこれやと要求します。
というより脅します。

平澤興は非常に穏やかな人徳者でしたが、即座に断固として断ります。
訴えは聞き入れることは出来ないと。

学生達は反発します。

総長は答えます。
「今の君達に軽蔑されることは何ら構わない。しかし、20年後30年後の君達に軽蔑されるようなことはしたくない」と。

学生達は押し黙ってしまったと言います。

この平澤興という方は、私が非常に尊敬する方です。
この方のある言葉が私に強烈な印象を与えたため、紙に書いて部屋に貼ってあります。

「教育とは火をつけることだ。
火をつけて燃やすことだ。
しかし、火をつけるということはこちらが燃えてなくてはできない。
人を燃やし、喜びを与えていくことが最高の生き方だ。」

私はカウンセリングなどの対人援助の仕事をしています。
カウンセリングでは、いろいろ流派はあるものの、基本的にはクライエントの内発的な動機が高まるのを促していきます。
クライエントが自ら気付いて、自らに静かな炎を付けるのを待つのです。

しかし、思うのです。
目的は、クライエントの消えてしまった生きるという蝋燭に再び火が灯ることです。
燃え続けていく生きる力を回復することです。

ならば、本人がつけるのもいいが、他者が付けることが出来るのならそれもいいのではないかと。
それはカウンセラー(対人援助者)ではなく教育者や宗教家かもしれません。

私は、もう年齢的に無理ですが、平澤興が言うような教育者への思いもかねてからありました。

私は迷っています。
対人援助者としてのスタイルで行くのか、教育者としてのスタイルで行くのか。
ただ、勇気づけが根本であることは変わりないでしょう。

 

生きる欲望に沿って行動する

今日は、以前話し方教室に通っていた仲間達と落語を見に行って、その後は飲み会でした。
生まれて初めての落語でしたが、想像以上に面白かったです。
前座の方達であっても話が絶妙で、やはりプロは違うと実感しました。

それで、私は5年ほど前に話し方教室に初めて行き、以後3年ぐらい通いました。
その中で、たくさんの人にお会いしました。
人前で話すことに悩んでいる人がほとんどでしたが、具体的な悩みは人それぞれです。

結婚式でスピーチしなければならなくなって慌てて来た人。
学校の先生でよりうまく話せるようになりたい人。
PTAの場が苦痛で来られた人。
昇進して人前で話す機会が増えるであろう人。
訓示等を行わなければならない経営者。

悩みは様々でも、人前であがってしまう仕組みは一緒です。
それは、より良く生きたいという思いが強いからこその病であるということです。

人とうまくやっていきたい、人前で話す時は自信を持って話したい、リラックスした自分でありたい。
そういった思いが強いからこそ、そうはならない自分に苦しむのです。

この思いがここまで強くなければあがり症にはなりません。
ここまで思いが強くなかったとしたら、単に引っ込み思案で消極的な人になるでしょう。

あがり症の方は単なる引っ込み思案の人とは似て非なる人であり、内面に強い負けず嫌いの感情や向上心があるのが大きな違いでしょう。
あがり症の人は生きる欲望を強く秘めているのです。

そしてここからが大きく異なります。

生きる欲望に沿って、向上していこうとする人。
生きる欲望はあっても、それを抑え込み困難から回避する人。

私は話し方教室に通い様々な人と会ってきた中で、自分自身へのあり方によって、その人の予後に大きな影響を与えていることを正に体験として見てきました。

今回、集まった方々は、フルマラソンにチャレンジしたり、講師としてステップアップしたり、職場で自分の能力を遺憾なく発揮したりしていました。
まさに、生きる欲望に沿って行動していました。

あがり症克服の肝は正にここにあります。

例え、あがることはあっても生きる欲望に沿って、行動する人。
逆に、あがることが治ってから、行動しようとする人。

この分岐点でどちらに行動するか、それは人生を左右するほどの大きな影響をもたらす選択となるのです。