(近日予定講座!)
「あがり症克服日めくりカレンダー」出版記念セミナー【新宿7/15】
あがり症(社交不安障害、対人恐怖症)の方がしばしば持つ特性に段階的思考というものがあります。
これは、あることがクリアされなければ次のことをしないという思考です。
例えば、飛び込み台があるとしましょう。
そこから飛び込まなければなりません。
怖いです。
緊張します。
このままではとても飛び込めません。
緊張がなくなって落ち着いたら飛び込もう。
深呼吸します。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせます。
気持ちが少し和らぐような気がします。
もう少しだ。
もう少し落ち着いたら飛び込もう。
そろそろ行けるか。
よし、今度こそ。
一歩、二歩と飛び込み台の前に近づきます。
視界が開けます。
めまいがしそうです。
脈拍があがります。
ダメだ。
俺には無理だ。
後ずさります。
しゃがんで体を丸めます。
呼吸を整えます。
ダメだ、もっと落ち着いてからでないととても飛べっこない。
今度は、もっと自分を落ち着かせよう。
息を吸って~吐いて~。
スーッ、ハーー。
スー、ハ―。
・・・・・
この方は一生飛べないかもしれません。
飛び込み台を前にして、普通誰しもがドキドキします。
怖いです。
しかし、その不安や恐怖がなくなってから飛び込もうと考える。
彼ら彼女らはかなわぬ望みを抱いているのです。
完璧主義の罠です。
現実世界は、かくありたいと自分が望むようになることは極めて稀です。
誰しもが心に引っかかりを持ちながらも、何かしらのことをしているのです。
完璧主義で、理想主義、そして段階的思考を持つあがり症(対人恐怖症、社交不安障害)の方はここをはき違えます。
こうなってから初めてこうしよう。
ここがクリアされない限りはこんなことすまい、と考えます。
あがることがなくならない限りは、社交場面には出まい。
緊張感がある限りは、会議で自ら発言しない。
あがり症が治らない限り昇進試験を受けまい。
あがり症が治らないと彼女なんてできっこない。
もう少し落ち着いたら話しかけよう。
あがり症だからスピーチは絶対断ろう。
あがるから自分から話しかけない。
懸念が取れない限りはリスクは取らない。
橋が落ちるかもしれないから橋を渡らない。
交通事故に会うかもしれないから車には乗らない。
隕石が落ちるかもしれないから外には出ない。
そうして自分の生きる世界を狭めているのです。
人としての自然なあり方、生きるうえでの必然を否定しているとも言えるでしょう。
緊張しながら、ドキドキしながらも飛び込み台の上に立つのです。
傷つくかもしれないけど、社交場面に臨むのです。
あがりながらも手を挙げ質問する。
振られるかもしれないけど告白する。
ドキドキしながら自分から話しかける。
あがり症者(対人恐怖症、社交不安障害)の方に足りないのは「~ながらも〇〇する」、「~だけれど〇〇する」です。
あがりながらも~する
緊張しながら~する
この「~ながら」の回数を積み重ねていく。
ここにしかあがり症の克服はありません。
そしてもう一つ付け加えるならば、できないかもしれなけれどできたら大きいことがあります。
それは、緊張していることを表現すること。
あがり症は否定の病です。
あがっていることを断固として拒絶し、隠します。
そうではなく、あがっていることを包み隠さず認め、表現する。
これはあがることの受容です。
その時、自分自身のあがりを否定することによる抗体反応としての、緊張と不安と震えが和らぎます。
あがりは否定するから活性化するのです。
そこをあがり症の方は踏み違えているんですね。
そしてもう一つ、あがりながらも、震えながらも、ただ、伝えることだけに集中する。伝えたいことが、強く確信していることや大好きなことほどいいです。
この時、人にどう思われるかを乗り越え、人にどう伝わるか、人にどう伝えられるかに集中しているのです。
ここには自分からの囚われから解放されて、他者への視点があります。
これが、目的本位の姿勢です。
繰り返します。
大切なことは、「あがっている」・「緊張する~」・「緊張しています」等、表現すること。
難しければつぶやきでもいいです。
とにかく緊張している自分を認めること。
そしてたとえ緊張しても、伝えるという本来の目的に集中すること。
ここにこそあがり症の克服像があります。
魔法の薬などないのかもしれません。
そして、たった一回の「~ながら」では成長した実感が得られないかもしれません。気の遠くなるような思いもするかもしれません。
しかし、到底考えられなかった「克服」という蜃気楼の存在を知った時、千里の道があり得るのだと知った時、ささやかな一歩を踏み出すことができるのです。
「克服」という蜃気楼、それはすなわち「希望」です。
希望ある限り人は生きていけます。
希望こそ生。
希望を、生きる希望を、どうか失わず、ささやかな一歩を踏みしめて頂きたいのです。