今日は「致知」という雑誌のメルマガ記事をご紹介します。
以下。

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「書家・相田みつをの『感動する心』」

相田みつを氏(書家)

※『致知』1986年12月号
特集「感動ある人生」より

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仏の心を別の言葉で“柔らかい心”といいます。

さしずめ現代の人々の心は、
損得、勝った負けたでいっぱいの、
“硬い心”でしょう。

そして心が柔らかくなければ、
感動もありません。

感動するというのは、
昨日気づかなかったものに、今日、
新たな発見をして感動するのです。

昨日も見た同じ萩の花なのに、
今日、新たな発見をして感動する。

そのためには、心に余計なものが入っていない
“柔らかい心”でないと駄目なのです。

私は毎日、何かに感動し、感激して
生きていきたいと思います。

それが人間が生きることだと思うからです。
そして同時に、人に感動を与える書、
人の心に響くものを書いていきたいと思っています。

うまさに徹すれば、それはそれで
人を感動させることもできるでしょう。
しかし、それは所詮(しょせん)、
私にはできないこと。

また、ただうまければいいという
ものでもないと思います。

たとえば結婚式の祝辞で、
偉い人の代読を聞いたことがあるでしょう。
巻き紙に書かれた立派な内容のことを、
とても上手に読みます。
しかし、感動はまったくありません。

ところが、新郎新婦の友人などのたどたどしく、
決してうまいとはいえない話に、
大きな感動を受けることがありあます。

それは何が違うか、一言でいえば
真心がこもっているかどうかだと思います。

友達のために何かいってあげたいという感動が、
それを聞く人の心にも伝わるのです。

書も同じです。

自分自身に感動がないのに、
人に感動を与えることなどできないでしょう。

いい書とは、練習ではなく、
毎日の生き方の総決算としてできるのだと思います。

自分の目がいつも光って、
心が生き生きしていないと、
いいものはできない。

感動のない者はなにをやっても駄目だと思います。

 

これは、相田みつおという今はもう亡くなられた書家へのインタビュー記事です。
独特の書風も味があるのですが、「一生青春、一生感動」など書の内容自体も人の心を動かすものがあります。

私は、まさにこの「感動」という言葉が大事だと思っています。
どうしても、メンタル面で余裕がない方は感動を忘れてしまっていることが多いです。

感動しないのではなく感動を忘れている。

そうしてカウンセリングなどにおいて、忘れていた感動という情動が再び湧き上がった時、クライエントの方の目が輝くのを見てきました。

感動は、心を覆い尽くした暗雲を霧消させる光となるのです。

そして、今日特に言いたいのは、先ほどの記事の結婚式でたどたどしく決してうまくない話に感動することがあるということです。

私は、このことに強く共感します。
私は、以前、話し方教室に3年ほど通っていましたが、このことをまざまざと見てきました。

ペラペラうまく喋れる人は、それこそ、うじゃうじゃいました。
しかし、記憶にはほとんど残っていないです。

話が上手い人の無難な話ほど記憶に残らないものはないです。
そうではなく、たとえたどたどしくても、その人が身を切るように自分の思いを語っている時、人は聞き入るのです。

なぜならば、そこに人のあるべき姿の真実を見るからです。

先ほどの結婚式の例で言えば、苦手なことや恐れていることを避けずに、他の誰かのために勇気を持って心をこめて何かを伝えようとしている。

その姿に人は感動するのです。

まさに、かつて支援した人の例がそんな例でした。

幼馴染が結婚式をするので友人代表としてスピーチを頼まれた。
確かに自分しかいないと思う。
けど……

そうして私の元にご相談に来られました。
いろいろ話した後に、最後に私はその方に言いました。

たとえ緊張しても、たとえ声が震えても、たとえ顔が真っ赤になったとしても、大切な友人のために心を込めて、語り掛けるように震えながら話してください、と。

数か月後、彼女からメールが来ました。

「おかげさまで・・・」で始まるメールには、先生に言われたように、あがることはほっておいて、心を込めて緊張して声を震わせながら読んだら、新郎新婦が感動して泣いていました。ありがとうございました、と。

私は、ここにあがり症の方にとっての一つの目指すべき姿があると思います。

私はあがり症の当事者だったからあえて言わせてもらいます。
あがるかあがらないかなんて、人生という視点で捉えた時、正直どうでもいいことなんです。くだらないことです。

あがったけれど、それにどう対峙したのか。
それが人生の本質です。

簡単ではないでしょう。
私の例で言えば、決して胸を張って言えるものではなかったです。

私は、本当に怖かった。
怖くて怖くて仕方なかった。
時に逃げた。
みっともないこともしました。

ただ、それでも人生の舞台からは決して降りなかった。
あがり症克服ヒストリーを綴るのを止めることだけはしなかった。
そうやって泥臭く、情けない思いをしてやってきたのが私の克服記です。

私は思うのです。
その生を終える時、振返って自分はどう生きたか。
何故かは知らないが、与えられたあがり症という運命に対し、どう臨んだのか。

自分がその生を終える時、自分の人生にイエスと言って死ねたらどんなにかいいでしょうね。

あなたは?