健全な劣等感

誰しもがより良くありたいと願います。

「あんなふうになれたらいいなぁ」
「これがもう少し楽になるといいなぁ」
「給料が上がればいいなぁ」
「成長したい」

より良くありたいとい思いは人である以上誰しもが願います。
これは人生に絶望し自殺願望があり、正に今それを決行しようとする自殺企図者にもあります。彼ら彼女らは苦しみから逃れたいのです。

 

これは極端な話にせよ、人が人生においてより良くありたい―優越性の追求を望む―ことはいたって自然なことです。

アルフレッド・アドラーは言います。

「全ての人を動機づけるのは優越性の追求であり、我々の文化に我々がなす全ての貢献の源泉である。人間の生活の全体は、この活動の太い線に沿って、すなわち下から上へ、マイナスからプラスへ、敗北から勝利へと進行する」

そして、この優越性の追求には必ずその裏の側面の劣等感を生じさせます。

これもまた自然なことです。同じくアドラーは言います。

「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」と。

 

そして、アドラー心理学において劣等感は「他者との比較から生まれるものではなく、目標と現実のギャップから生じる陰性感情」(岩井俊憲、永藤かおる『子供を勇気づける教師になろう』)と定義づけられます。

劣等感は、それが健全に働けば人の成長を促すエンジンとなりますが、一方、強い劣等感は人を苦しめます。目標(理想)と現実のギャップがあまりにも乖離している現実を見て失望するのです。

また、視点をどこに置くかということも大きな影響を及ぼします。

普通、人の視点の置き場は今現在の自分にあり、そこから世の中を見ます。
今の自分は50点だからあと10点アップするために頑張ろう、とか、今の自分は50点だから失敗したのは残念だけどしょうがない、また次頑張ろうなどとなるのです。

 

しかし、例えばあがり症の方は、視点が違います。
理想(目標)の位置から今の自分を見るのです。

彼らはあるべき100点像から今現在50点の自分を見るのです。その視野には決してプラスの面は写らずマイナス50点分しか目に入りません。

これは、あまりにも酷な減点法でしょう。
なぜなら、彼らが今後努力して60点になろうが、80点になろうが、はたまた95点になっても、視点が理想像にある限りマイナスでしかカウントされないからです。

これがよくある華やかな経歴を持つのに劣等感に苛まされる人の心理構造です。

 

私が話し方教室に通っている時、ある40歳ぐらいかと思われる美人医師がいました。
研究だけでなく医師を目指す若い学生にも授業で教えているとのことで、話し方も何しにここにきているのというぐらい非の付けようがありませんでした。

しかし、完璧なように見える彼女でしたが、一点だけ明らかな所がありました。
それは、表情です。笑顔が少なく、自分を自分で責めている様子が如実に伝わってくる表情でした。

後で彼女の話を聞いてみると、彼女は医師の家系でした。
父親は院長先生、兄弟もそう、そして彼女もその道を進んだのです。
家族から自分に求められるあるべき自分像、そして自分が基準とするあるべき自分像はあまりに高水準のものだったに違いありません。

その基準に適応できているうちは良かったでしょう。
しかし、残念ながらそこに一点の瑕疵が生じたのです。

彼女は、ある時、人前であがっている自分に気付いたのでしょう。
それは、あってはならない出来事です。
必死にそれを打ち消そうとしたのに違いありません。
しかし、あがり症に対する努力は、努力すればするほど報われません。

 

これさえなければという思いと努力が、かえってあがり症の存在を固着・強化させるのです。99点の彼女は、そのマイナス1点分を凝視して生きていたのです。

我々に必要なことは健全な劣等感ではないでしょうか。
それは、理想(目標)から今の自分を見るのではなく、そして人と比べるのでもなく、昨日の自分と今日の自分を比べること、そして明日への自分に努力することなのではないでしょうか。

 

叶うことのない望み

私は、障害者の就労支援の仕事もしており、そこでは精神疾患を抱えた方にも関わっています。そして当事者の方々と面談して相談に乗ることも多いです。

私はカウンセラーでもありますので必然的にカウンセリング的な面談になったり、面談時にカウンセリングをすることもあります。

 

その中で、うつ病の方々と関わることが多いのですが、うつ病の方々には「べき思考」の方が本当に多いなぁと感じます。

「こうあるべき」とか「~ねばならない」という思考が自分自身を強く縛り、そうならない状況に多大なストレスを抱えるのです。
そうして自分で自分を追い詰めていきます。

 

ほんと、ずるくとか、手を抜くとか、さぼるとか、適当にとか、ちゃらんぽらんにとかを、この方々ができればどんなにか楽だろうと思うことがあります。

また、援助希求力のない方も多いです。
援助希求力とは、その名の通り助けを求める力、悲鳴を上げる力のことであり、頼まれた時断ることがなかなかできない彼ら彼女らは職場において仕事をどんどん抱え込んでしまいます。

「今、きついです」「ちょっと手伝ってもらえまえんか?」「できません」などといったことが言えず、こなせない仕事を抱え続け、誰にも相談することもできずやがてパンクします。

パンクした時には通常業務どころか簡易作業や通勤すらままならない状態になってしまい、やがて休職あるいは退職といった形になります。

援助希求力がないということでは、ある女性の方が印象に強く残っています。
私は、高齢者の夜間電話相談もやっているのですが、そこである政治家の妻が時折電話をかけてくるのです。

政治家の夫は既に亡くなっているのですが、亡くなられた原因が人為的な不慮の事故によるもので妻はいまだにそのことを消化できずにいて悶々とした日々を過ごしています。

しかし、彼女は日常生活ではそんなことはおくびにも出しません。
様々な洗練された趣味や文化活動に精を出し、また、隣に住む娘夫婦と孫には料理したものを持って行ったりして家族のために尽くしています。
友達との交有関係も豊富なようでした。

実際、お話を聞いていると、日中の彼女は友人などから頼られる女性であり、まるで太陽のように明るい完璧なる妻、完璧なる母を演じ切っていました。

しかし、夜になり一人になると強烈な孤独感や死にたいという思いに囚われてしまうと言うのです。

そして完璧なる母である彼女は、そのことを身近な人には誰にも相談することができずに、というよりも身近な人に知られることはあってはならないことで、ひたすら自分の内に秘めていました。

そして、思いを抑えておくことができずにこの匿名の電話相談に電話して悶々とした思いを吐露されるのでした。
更には、この電話相談に電話すること自体も彼女は情けないことと言い、にもかかわらずどうしても受話器を握ってしまう自分を受け入れられないと言うのでした。

彼女は人として当然に生じる不安や心配、恐怖といった感情を、かくあるべき自己理想ゆえに断固として否定し消し去ろうとしていたのです。
こういった感情を起こしてはならないと考えていたのです。

いわば不可能を可能にしようとしていたのです。
これを森田療法の創始者である森田正馬は「思想の矛盾」と呼びました。

この「思想の矛盾」は、あがり症者にも特有のものです。
あがること、不安に思うこと、緊張することなどの感情を、かくあるべしという自己理想から断固として否定するのです。
排除しようとするのです。

しかし、あがり症者の望みは決して叶うことはありません。自然に湧き上がる感情を消し去るということは摂理に反したことなのです。

感情は本来そのまま感じるものなのであり、その感情を受け止めない限りは、却ってその感情が継続したりあるいは増幅してしまうのです。
あがり症の方の不安や緊張がその時だけのものではなく持続的に続くのもこういった所に一端があります。

感情を否定せず受け止める、そういう自分を受け入れる。
これは自分を許していく作業とも言え、長年の生活習慣病とも言えるあがり症の方にとっては、少しずつ取り組んでいくべきことです。

そして、別のアプローチとしては「目的本位に生きる」ということが挙げられます。
これは明日のブログでお話しさせていただきます。