ミラクルクエスチョン
問題トークという言葉があります。生きにくさの渦中にいると、その困難さの余り、ひたすらに問題に焦点を当てて話し続けていきます。
こちらが明るい面を聞いていこうとすると、「でも~」、「だけど~」などと益々問題を言い募ります。
そんな時はミラクルクエスチョンです。
相手の訴えを丁寧に聞いていき、ふと一息ついた所でおもむろに切り出します。
「そうなんですね~。ところでちょっと変な質問をしてもいいですか?」
相手は?といった様子で「はぁ」などと答えます。
そして私はゆっくりと語っていきます。
「あなたは今日これから家に帰って布団に入り眠りにつきます…。
そして寝ている間に奇跡が起きて、
あなたの抱えている問題が全て解消されたとします・・・。
でも、あなたは眠っているので奇跡が起きたことを知りません・・・。
そして目が覚めて、1日が始まります・・・。
あなたは、どんなことで、奇跡が起きたことに気づくでしょうか・・・?
どんな事から奇跡が起こった違いに気がつくでしょうか・・・?」
相手は訥々と語り始めます。私は奇跡が起こった一日をありありと鮮明に頭の中に描き出せるよう質問していきます。奇跡が起こった一日をどんどん膨らませていくのです。
これはブリーフセラピーという心理療法の中のミラクルクエスチョンと呼ばれる一技法です。このミラクルな一日を語っている時、問題トークから離れて、ソリューショントーク(解決トーク)に切り替わっています。
奇跡が起きて、問題が解決した時の様子を克明に浮かび上がらせるのです。
これをあがり症の方に使うとどうなるか?
人前で話している時緊張せず平然としている。
聴衆はこちらを見ているが動揺もせずに淡々と話し続ける。
私は静かに落ち着いている。
心臓の音はゆっくりと。
顔は赤くならず涼しげだ。
聴衆は尊敬のまなざしで私を見ている。
私は冷静に話し続ける。
人と話している時は適度にリラックスして時折冗談など話して笑い合っている・・・。
他の人たちからすると当たり前のことなのかもしれない。
しかし、あがり症の人たちにとっては、これまで想像もしたことがなかったような奇跡を擬似体験することができるのです。
思いは実現する。
あがり症を語る⑦のイメージは実現するでも書きましたが、克明にありありとイメージできたことは実現するのです。
私はカウンセリングにおいては解決のイメージを膨らませていくことが大事なことではないかと強く思っています。
庭の中の毒草
Aさんは自分の家の庭がお気に入りでした。庭には、色とりどりの花や草が生え、道行く人も足を止めて眺めるほどでした。
ある日、ふと庭の片隅に珍しい草が生えていることに気がつきました。
なんだろう?
Aさんの心に微かな不安がよぎりました。
調べてみると、不安が的中していることに気がつきました。
その草は毒草でした。
Aさんは自分の美しい庭が汚されるような気がしました。
見ないようにしましたが、見ないようにすればするほど余計に気になります。
たった一本の草のことを気にするなと自分に言い聞かせ庭全体を見ようとしましたが、どうしても一本の毒草に目がいきます。
やがて、道行く人の表情を見ては、自分の庭の汚点に気がつかれたのではないかと怯えるようになりました。
そして、Aさんは決断しました。
庭を囲むように人の背丈より高い壁を作ったのです。
こうして庭は外界から遮断されてしまいました。
何かと似ていないでしょうか?
庭を自分自身、毒草を緊張すること、とします。
あがり症の方は、自分自身にたくさん美しい花や草が生えているのにもかかわず、たった一本の毒草にこだわります。
それは白黒思考のあがり症の人にとっての不都合な真実なのです。
あってはならないことなのです。
それゆえ、その不都合な真実を亡きものにしようと、あれやこれやと計らい事をします。
しかし、それはかえって仇となりたった一本の毒草が自分の全てを占めるようになっていくのです。
やがて、毒草を、つまりあがっていることを人に見られることのないよう、外界との関わりを遮断していくのです。
仏教に十界互具という言葉があります。
これは一人の人間の中に善も悪も、強さも弱さも、清きも醜きも、何もかもが本来備わっているということを意味してます。
いわば、様々な毒草も当然に自分の中に持っているものなのです。
あがっている自分を否定せず、認め、そして受け入れていくことが、あがり症の囚われから解放され、自然体の自分自身が発揮されることにつながっていくのです。