「べき」思考の罠

あがり症の方々は「べき」志向が強い特徴があります。

「べき」思考とは何か?

それは自分自身に対して「こうあるべき」、「こうあらねばならばい」という考えです。

それが適度なものであれば自分自身を律し、高めるエネルギーともなります。

しかしそれが過度に偏っている場合自分自身を苦しめることになるのです。
こうあるべき理想に対して現実の自分がそうなっていない。

それはあがり症の人にとってあってはならないことです。

人前で話す時緊張する、それはあってはならないこと。

赤面する、それは人に見られてはならないこと。

声が震える、それは人にばれてはいけないこと。

そしてその掟をも守るため、緊張や不安を排除しようとそこに自分の全神経を集中します。これさえなければと一点集中することで皮肉にも逆にそれが強化されるのです。

これを精神交互作用と言います。

そしてそれを何度も何度も繰り返すことでいつの間にか自分の手に負えないモンスターのようになっていくのです。

 

予期不安と過去の後悔と

初めはふとしたことがきっかけだったのかもしれない。

それほどは大きなことではなかったのかもしれない。

しかし、人前で話す時に緊張することや失敗することがあってはならないという思いに囚われることで、逆に症状はより強固なものになっていきます。

そして、やがて予期不安に襲われるようになります。

 

予期不安とは、人前で話すことがあらかじめ分かっている時に持続的な不安に襲われることです。

文字にするとたいしたことではないようにも思えますが、例えば、100メートル走の直前に心臓の音が聞こえるような経験は多くの人がしているのではないでしょうか。

それと同じことが、あがり症の人に起こるのです。

しかも、人前で話すも直前だけでなく、もっと前の段階からじわじわと締め付けられるような不安が持続的に続くのです。

 

そして、人前で話した後は、欠点や失敗のあら探しです。

声が震えたのがばれたのではないか、あそこで口ごもってしまった、あの人は私が緊張していることに気付いたのではないか、等々。

そして失敗を見つけ、後悔し、しばらく引きずります。

 

いわば、あがり症の人は未来の不安に怯え、過去の失敗を後悔して、「今」を生きていないのです。

 

「今」を生きる、そのことがあがり症克服のキーワードの一つとなっていきます。

 

自分のことばかり考えれば考えるほど・・・

あがり症に類似するもので対人恐怖症、社交不安障害(SAD)などと色々な呼び名で呼ばれているものがありますが、それぞれ診断基準の違いや内容などで微妙な違いはあるものの、ここではほぼ同一のものとして扱っていきます。

説明上、分ける必要がある時は分けて扱います。

私自身は、17歳のころにいきなりあがり症になり、その後18年ほど苦しんできた人間です。

今では8割、9割方回復して日常生活を送っています。

残りの1割、2割は、同じように何らかの心の悩みや生きにくさを抱えている人達を勇気づけていく実践の中で回復していくのではないかと思っています。

 

こういった他の誰かの為にという発想は、最も症状がきつい時は欠けらも思いつきません。少なくとも私はそうでした。

もう、自分の症状にばかり囚われているんですね。

人にどう思われたか、あがり症がばれてしまったんじゃないか、来週の会議であがってしまうんではないか、声が震えてしまった、もう終わりだ、etc…

 

印象的な経験があります。

私は3年ほど話し方教室に通っていました。

そこでは月に一回、合同授業と言って各教室が一か所の会場に集まりいつもより多い人数で授業をしていました。

そして20、30人と生徒がいる前で3分スピーチなどを発表していくのですが、自分の番が直前になると壇上の傍の待機スペースに座ります。

そしてそこに座った人は私もそうでしたが、自分の前にスピーチしている人の話をほとんど聞いちゃいないんですね。

 

原稿に必死に目をやったり、そわそわ落ち着かない様子だったり、もう、上の空なんです。そして、いざスピーチが終わって人の話を聞くかと思いきや、今度は自分のスピーチの振り返りで頭がいっぱいになります。

あがり症の人は、誰かに積極的に悪いことをするという意味での自己中の要素は非常に少ないのですが、自分のことばかりを見て他の人への視点がおろそかになるという意味での消極的自己中の要素を高く持っているのです。

 

いわば、自分のことばかり考えて自分の為にあれやこれやと図ることが却って仇となり、自分を苦しめる悪循環の輪に陥ることになるのです。   この悪循環を打破することが回復への一歩となります。